1907年9月8日 19時10分 バッキンガム宮殿
『ポインター』
狩猟において獲物を見つけ、その潜む位置を飼い主に示す猟犬。
我が英国における表には出てこない猟犬たち。
通称『Hounds』の一員であるヘクターに与えられた役割である。
イギリスに仇なすものを見つけ出し、主人に伝え、場合によっては始末する。
それがポインターの仕事である。
貴族というのはあくまでもそのカモフラージュのため与えられた地位である。
「率直に言わせていただきます。『ボルゾイ』が嗅ぎ付けました。エンテが渡りを始めたそうです」
ローザのセリフに思わず息をのむ。
当然だが情報が漏れてしまわないように会話には事前に決めてある暗号を用いる。
ボルゾイはHoundsの諜報、防諜を担当している同僚だ。
エンテはドイツ語で鴨の意味を持つ、暗号としてはドイツの某極右政党を示す。
そして渡りが示すのは。
(女王暗殺計画…!正気かねえ、奴さんたち)
英国女王を暗殺することにより、現在にらみ合いになっている欧州各国間で戦争を引き起こす。
連中はプロジェクトLと呼んでいるらしい、そんなバカげた作戦が実行に移され始めた。
それが自分に伝えられたということはすなわち。
「ポインター、あなたには鴨狩りへの参加が指示されています。詳細はこちらに」
手渡されるのは恋文のように封をされた便箋。
偽装が凝ってるなあと思いながら。
「面倒だねえ。僕が言うのもなんだけど、人類って生物は血の気が多すぎると思うんだがどうかな?」
「なにせ神様が自分に似せて作ったのですもの。当然でしょう?」
違いない、と返しながらローザと別れる。
舞踏会ももうじき終わるだろう。
途中で美女と一緒に抜け出していたことでまた面倒なうわさが増えるなと溜息。
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行きと同じように馬車に揺られながら受け取った恋文に目を通す。
「先ほどの女性は…」
「上司の連絡役さ。面倒事を伝えに来てくれたよ、嬉しいね?」
「はい、それが仕事ですから」
恋文によると、暗殺が行われるのは一週間後。
バッキンガム宮殿で英国中から有力貴族を集めて行われるパーティーが舞台となる。
実行犯となる人物たちの顔がわかっていないのが不安だ、たとえこのパーティーで暗殺を防いだとしても暗殺者たちを捕縛、もしくは排除できなければ脅威を取り除いたことにはならない。
つまり。
「どこからどのように飛んでくるのかわからない矢を防ぐ盾となり、矢を放った人物を討つってわけか。厳しい話だ」
「ドレスを着て踊るよりは有意義だと思いますが」
「パーティー会場だからドレス着ることになるんじゃないかなあ」
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理想としてはパーティーの始まる前に暗殺者たちを始末してしまうことなのだが。
「厳しいよねえ…」
思わず現実逃避したくなる。
目の前のデスクの上の書類に書かれているのはここ数年のイギリスへの出入国者のリストだ。
名前、顔写真、性別、年齢、入国目的等々の情報が羅列されている。
この中から少しでも怪しい人物を見つけられたら…というのが目的だ。
しかし暗殺に使われる道具は多種多様だ。
まさか近づいてナイフで一突き!
なんてわけではないだろう。
ならば銃か毒薬か、あるいは爆薬か。
いずれにせよパスポートに書かれる情報程度で絞り切れるものでは到底ない。
だから結局のところ水際で阻止するしかないのだろう。
最悪自分たちが直接的な盾とならねばならない。
この職業に就いている以上そのことは覚悟してはいるものの、怖いものは怖い。
少しでも死ぬ危険性を減らすためにはやはりこのような地道な努力も必要なのだろうと、ヘクターはまた書類に目を通していく。
と、そこでふと目が留まる。
手に持った書類に書かれた名前はパットン伯爵、イギリス王家より爵位を戴いて四代目の名家である。
なぜ彼の名に目が留まったのかというと。
「出国目的、オーストリアの知人を訪問するため。今年だけで三回目、か。ちっとばかし多いよねえ」
オーストリアは現状ドイツと同盟を結んでいる。
更にパットン伯爵は名家とはいえ正直なところ『落ち目』だ。
かつては栄華を誇っていたものの先代が商売で失敗、結構な額の借金を背負っていたはずだ。
本来であれば倹約したいところだが。
「貴族の誇り、ねえ。面倒なものだ」
体面を保つためにもそれなりの金が要る。
つまり国を裏切る下地は十分ある。
嫌疑ありの箱に書類を放り込みながら溜息をつく。
人間とは不思議なものだ。
自分たちの存在意義の一つとして誇りを持ち、しかしそれゆえに縛られ苦しむ。
自分はどうなのだろうと自問自答する。
貴族という表の顔は与えられたもので。
ならば自らつかみ取った自分とはなんなのだろうか。
珍しく哲学的なことを考えているなと自分をほめる。
しかしそんなことを考えても目の前の書類は減らないわけだ。
もう一度溜息をつくと、窓の外がいつの間にか暗闇になっていることに気付いた。
今夜も眠れなさそうだ。
夜の闇を照らす三日月を猟犬は恨めし気に睨んだ。
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結局、パーティーの前日になってもめぼしい証拠は見つからなかった。
いくら疑わしかろうとろくな証拠もなしに貴族を捕まえられるはずもない。
腐ってもなんとやら、だ。
明日のパーティーにはパットン伯爵も当然招待されている。
こういったパーティーでは自らの権威を見せつける意味も兼ねて執事や侍女を連れ歩くのが慣例となっている。
もちろん貴族自身の周囲に対する露払いといった意味合いも持つのだが。
もしパットン伯爵が暗殺を実行に移すならば彼自身が手を下すのではなく、彼の部下に命じることになるのだろう。
しかしいくら彼の部下といえども英国人だ。
女王暗殺に躊躇する者の方が多いだろうし、情報漏えいの危険も高まる。
ならば命を受けるのはよっぽど彼に信頼されているものかもしくは。
「向こうからの手引きで新しく雇い入れた人材ってところかねえ」
当然パットン伯爵以外にも要注意人物は大勢いる。
故にHaunds内部でもそれぞれ担当を分け合っているのだ。
パットン伯爵の担当は自分、ではない。
普段の貴族としての振る舞いに問題があるせいだが、自分は彼にあまりよく思われていない。
ゆえにヘクターに担当としてあてがわれたのは。
「久しぶりだなヘクター、相変わらず目つきが悪いなあ」
「これはこれはローリー卿、先日の舞踏会ではモテモテだったじゃないか。羨ましいなあ」
「彼女たちは俺じゃなくて俺の苗字しか見てないのさ」
ローリー男爵だ。
彼とはかつて同じ場で叙爵されており、それ以来悪友のような付き合いが続いている。
家柄とかを考えればありえない話ではあるのだが、彼自身が家柄とかを嫌っておりおかげで今までのところ上手くやってこれている。
そんなこいつが目をつけられた理由もそれである。
貴族という家柄を嫌う、嫌疑の理由としては十分だと判断されたらしい。
そこで彼と親しい自分が監視として選ばれたわけだ。
出来れば彼でなければいいなと、そう思うのと時を同じくして開式の言葉が聞こえてきた。