1907年9月1日 13時22分 ロンドン市内某所
両隣を背の高いビルディングに挟まれたせいで日当たりのよくない建物の中。
黒のドレスに白のエプロン、いわゆる『メイド服』に身を包んだ女性が赤い絨毯の上を歩いている。
その両手にはポットとカップを載せたトレーがある。
廊下のつきあたり、その左手にあるドアの前でメイド服に身を包んだ女性は立ち止まる。
そしてトレーを片腕にそっと載せると空いた右手でドアをノック。
「ああ、どうぞ」
室内からの返事を聞くとドアを押し開けて室内へ入る。
目に入るのは部屋の両隣の壁すべてにすきまなく並んだ高価そうな本棚、部屋の中央に配置されたこれまた高価そうなデスクとその見た目を台無しにするような大量の書類の山。
そして。
「紅茶はそこに置いといてくれ…ああいや、やっぱり今淹れてくれ。のどが渇いた。」
新聞を読みながら指示を出してくる整えられた金色の短髪の男性。
『英露協商締結なる。大陸に広まる暗雲!』
読まれている新聞にはセンセーショナルな見出しがでかでかと載っている。
新聞を読んでいた目は寝不足のためか真っ赤に充血している。
「ドロシー、せっかくなら君も飲むかね?なにぶん、一人で飲むのは味気ない」
「…それが指示ならば、喜んでお受けしましょう」
「僕としては主従の関係抜きで受けてほしいものだがねえ」
ドア横のミニテーブルにトレーを置いてポットから湯気を立てる紅茶を2つのカップに交互に注ぐ。
漂う湯気が芳醇な香りを共に広げる。
「この香りはアッサムかい?」
「インドから取り寄せた最高級品だそうです。贅沢ですね」
カップを金髪の男性、ドロシーの主人の前にサーブ。
自らももう一つのカップを右手で持つ。
「ふむ…さすがは高級品だ。なんとなく美味しい気がするね?」
「仮にも貴族様への献上品ですからね。いいダージリンです」
こちらの返答に一瞬主人が固まった。
「…ドロシー、君は時々いい性格をしているよね」
「嘘は言っておりません」
苦笑する主人を横目に、先ほどまで読まれていた新聞を流し読みする。
ここ数年、欧州は常に焦げ臭い状態が続いている。
オーストリア、ドイツ、イタリアとわが母国イギリス、フランス、ロシアのそれぞれ三国同士の対立が激化しているのだ。
今のところ幸いなことに戦争には陥っていないが、今の状態が続くならばそれも遠くない話だろう。
故に各国は緊張状態の緩和のために奔走しているのだが。
「気になるかね?」
「…どちらかと言えば気になるのはあなたの体調です」
「ふむ、心配してくれるとは有り難い話だね。…今晩これ絡みで会食があってね、準備を5時までに頼む」
いろいろと言いたい事はあるが、主人のすまなそうな笑みを見るとその気力も失せる。
困った人だと溜息をつくと。
「馬車の手配もしておきましょう。着付けまでは時間を空けますからその間小休止でもおとりになるとよろしいかと」
主人に尽くすのはメイドの役割、たとえそれが雇用関係によるものであろうともその原則に誤りはない。
そう思いながら飲み干して空になったカップを置くと、主人に対して軽く一礼。
部屋を出ると準備のために急ぐように歩みを進める。
9月に入ったとはいえこの時間帯はまだだいぶ明るい。
夕日の眩しさに目を細めながら金髪の男性、ヘクターはタイの位置を直す。
目の前にはドロシーの手配してくれた馬車が停まっている。
「上手く直っていませんよ」
横に立っていたドロシーがタイの位置を直してくれる。
その身は先ほどの地味なメイド服ではなく白を基調とし、きらびやかな刺繍をあしらわれた華美なドレスに包まれている。
「相変わらず綺麗だ。コルセットは大丈夫かい?」
「世辞をどうも…世の女性はなぜこうまでしてウエストを細く見せたがるのでしょうか」
「間違ってもそのセリフを今晩の舞踏会中に口に出さないことだ。僕が怒られる」
と、そうこうしているうちに手に持つ懐中時計の短針が5時を指し示す。
「さて行こうか、お嬢さん?」
先に馬車に乗り込み、差し出した右手をドロシーが掴むと軽く引っ張り上げる。
対面の座席にドロシーが座ると、ロープを引っ張りドアを閉める。
頭の後ろにある小窓越しに運転手に出してくれ、と声をかける。
一拍おいて馬の鳴き声と同時に馬車が揺れ、走り始める。
「僕が思うに…舞踏会のダンスは下心ありだからこそ面白い。君もそう思わないかい?」
「私のように地位や家柄を持たない者にとっては苦痛でしかないのですが」
「毎回多くの男性に言い寄られてるじゃないか」
「それを嫌う女性や親の方々からの視線が辛いのですよ。いっそ壁の花の方がマシです」
「そのセリフも口に出さないように」