始める
昨日は完全に寝不足だった。
ロルフさんに用意してもらった教材すべてに目を通しながら、耳ではロルフさんの質問を聞いては答えの繰り返しで、結局彼から解放されたのは日付をすぎてからだった。何を聞かれて何を答えたのか、一つも覚えていない。
大体、後で迎えに来ると言っていたセアドさんが来たのは明け方前で、それまで帰ろうにも帰れなかったのだ。本人は何やら仕事が立て込んでいたと話していたが、眠気が限界を超えてそれを許せるだけの余裕もなかった。
そんな一日が明けて、朝。今日が王子の教育係として初めての仕事になる。
肝心の座学だが、本を読んでいる限りでは日本で習っていたようなものとさほど変わりはなくて、それほど難しくも感じなかった。さすがに英語や理科なんて教科はまったく別物だったが、それらを除けば多少予習するだけで問題ない。やはりこの国の言葉を読めるというのが、一番の効果だろう。
同じカイ君とはいえ、あの生意気な性格の王子が相手とあって、不安は募るばかりだ。この前は素直に受け入れてくれたけど、急に気が変わって拒絶されるかもしれない。
王子の部屋までは道を覚えたので、今日は約束通り一人でやってきた。
扉の前まで迫り、足を止める。緊張を抑えるために軽く呼吸を整えてから、控えめに扉をノックする。
「王子様、アンナです」
しばらくして、小さく足音が聞こえてくる。扉越しに伝わってきた音はやがて止まり、しばらく反応がなくなる。そんな沈黙にもただずっと待っていると、ようやく扉がゆっくりと開いた。
相変わらずフードを目深に被った王子が、隙間から顔を覗かせる。本当に来たのか、と言わんばかりの警戒心を剥き出しにしながら、彼はおずおずと部屋に招き入れた。
王子の部屋に入るのは、これが初めてだ。いつも僅かな隙間しか開かない扉からでは、中の様子は何も見えなかった。
室内は昨日の図書館と比べたら大したことはないが、一人で過ごすにしてはあまりに広い。彼の趣味なのか、全体的にほの暗い空間だ。カーテンは朝だというのに閉め切り、薄ぼんやりとした明かりが部屋を照らしている。全体的に雑然としていて、床にはよくわからない道具や書物が散乱していた。
皇子の部屋というより、どこぞの黒魔術師の実験室のようだ。
王子は空いている椅子に腰掛け、向かい側にあった椅子に座るように促した。おずおずと腰掛け、ようやくしっかりと向かい合う。
何度か会っているというのに、いざ始めるとなると緊張が高ぶって、あらかじめ考えていた言葉も消えていく。
「あ……え、ええと……それじゃあ、今日からよろしくお願いします」
「……はあ」
「んと、ええと。今日は数学から始めようと思うんだけど」
「あのさあ」
苛ついたような、それでいて呆れたような声。彼が私を馬鹿にしているのは言わずともわかる。フードに隠れた目で、そんな視線を送っているのもわかる。
何だろう、この子、すごくやりにくい。家庭教師のバイトを始めたのは一年も前だし、カイ君の他にも別の生徒を教えていた経験もある。その中で、自分に合う子も合わない子もいた。だけど仕事だから、そんな自分勝手な都合で生徒を見放しはしなかった。
でも、彼だけは。
「お前、本当にどうして教育係なんか頼まれたわけ? 親父が見込んだ奴だっていうから、それなりにすごい奴だと思ってたんだけど」
「そ、それは買被りすぎです……そんな、教えのプロとかじゃないし」
「はあ……なるほど。つまり俺を部屋から出せたくらいで調子に乗ったと」
刺々しいけれど、それは正論であり、私の思考を代弁していた。王様からの要求がなければ、こんなこと考えもしなかったのだから。だけど引き受けたのは他でもない自分。
王子を部屋から出せたことに満足感や、多少の優越感があったのも事実だ。これは自分にしかできないことなんだと信じ込んで、しまいには上手くいけばもとの世界に帰れるなんて、甘い考えを抱いていた。
だけど、家庭教師なんていっても所詮はバイト、本物かと聞かれたらはっきりと頷けない。
本当に、返す言葉もない。
「はあ……ほんと、親父のそういうところ、嫌いなんだよな。城の奴も俺のこと心配してるだとか何とか言ってるけど、結局のところ親父の命令だから相手してるだけで、面倒くさい駄目息子とか思ってるわけだし」
「……」
「お前もさ、無理して親父の言うこと聞かなくてもいいよ。俺はここから出るつもりないし、何したって無駄だから」
心が痛い。別に私のことが嫌いだとか、そういうことを言われてないにしても、心が抉られる。嫌いだとか面倒くさいとか言われるよりも、彼にとって私は必要な存在じゃないことが、何よりもつらい。
彼に見放されたことで、誰からも必要とされていない気がして、怖くなる。
思い出すのは、ここに来る前の、進路に悩んでいた私。自分が何したいのかわからなくて、それを探そうともがいても、見えてくる未来はなくて。
「そんなこと……言わないで」
「は?」
「そんなこと言われたら、私、もうどうしてここにいるのか、何のためにいるのかわからないよ」
「そんな……んなこと、知るわけ」
「じゃあ、もとの世界に戻してよ。あなたがやったんだから、もとに戻す魔法くらいあるんでしょ? 戻してよ、戻してよ!」
人前だというのに、構わず喚き散らす。涙が零れても、顔がくしゃくしゃになっても知らない。
ずっと寂しかったんだ。帰りたいのも本当だけど、誰かの役に立ちたいのも本当だけど、たとえ誰かと一緒にいたって、楽しそうに話していたって、寂しさが紛れることはない。
吹っ切れてしまうと、ずっと言いたかった言葉も案外簡単に零れ落ちてしまった。二十歳を超えた女が急に泣きだして、さすがの王子もうろたえ始めたが関係ない。
「わ、わかった! わかったから泣きやめ!」
彼が耐えきれずに言いだすまで延々と泣き続けた。こんな風に泣いたのは何年振りだろう、随分久しぶりに見る涙は、酷く綺麗に見えた。
ようやく落ちついてくると、さっきまで大声で泣き喚いていた自分が急に恥ずかしくなってくる。涙を拭ってようやく振り出しに戻るも、向かいに座る王子も気まずさを感じているようで、ぎこちない空気が室内に流れる。
ここは年長者として何か言わなければと思うも、喉が震えて上手く声が出ない。そうこうしているうちに、王子は椅子から腰を上げ、床に落ちていた杖を拾った。おとぎ話の魔法使いが持っているような、木でできた大きな杖だ。
「……怒るなよ?」
急に何を言い出すかと首を傾げていると、王子は言いにくそうに口元を歪める。何を言い出すのかと若干の心構えとともに待機していれば、彼は思いがけないことを口にした。
「確かに俺は魔法で異世界の生物を召喚できる。でも、もとの世界に送り出すことはできない」
現状で一番に絶望的な言葉を受けた。
できないことを理不尽になぜと問い詰めるつもりはない。いくら魔法といったって、万能の能力ではないのだ。それは今まで見てきた魔法から理解できる。
だけど、これで帰るための手掛かりはなくなってしまった。しばらく帰ることはできなくなった。それが何日、何年続くのかもわからない。
よほど絶望に満ちた顔をしていたのか、王子は慌てて私の傍へと掛け寄ってきた。何も落ち込ませるために言ったのではないと、彼は付け加える。
「お、おい! 確かに戻すことはできないけど、俺の魔法の腕はまだ未熟なんだ。完璧に使いこなせていない。だからまだ可能性が失われたとか、そういうことじゃねえんだよ」
「え……どういうことですか?」
「あー……」
ちゃんと理解できていない私に、彼は言いにくそうに顔を背ける。フードを被っているせいで表情が見えないが、感情は微かに伝わってくる。
彼はまた少し距離を取り、そして背を背けて散乱した床にどかりと座り込んだ。躊躇いと迷いに満ちた声が、ぼそぼそと聞こえてくる。
「今まで異世界の人間を召喚したときもそうだけど……俺が呼びだしたいのは、お前らじゃないんだ」
「え?」
「これ」
そう言って投げ飛ばされた本を、慌ててキャッチする。表紙を見ると、禍々しい空想上の生物らしきものが描かれている。表紙を開き流し読みすると、それは表紙の怪物が地平を蹂躙し人々に災厄をもたらすといった、神話のようなものだった。
まさかこれを呼び出そうとしているのかと疑いの目を向けると、彼はそうだと言わんばかりになぜだか得意げだ。
「そいつはレガイア。この世界の神話に伝わる、すべてを破壊する神話の怪物だ。何度か試してみてるけど、失敗でお前たちを連れてきたってこと」
「こ、こんなの呼び出してどうするの? そんなことしたら、たくさんの人が死んじゃうんだよ……?」
「わかってる。でも……これ以上戦争が続くくらいなら、俺はこんな国、滅んだ方がいいと思う」
長いこと部屋に閉じこもっていたのも、父親に妙に反抗的だったのも、すべてはそういうことだったのか。
この国で代々続く戦争を、彼は嫌っている。いずれ父親である王が死んで王位を継承するときが来れば、彼が指揮を取って戦わなければいけない。決められた未来を変えようと、こんなことをしていたなんて。
たぶん彼は、この城の誰もが思っているほど、子どもなんかじゃない。ずっと前を、未来を見据えている。それでいて、今自分にできることを一生懸命果たそうとしている。
国が滅んでもいいなんて過激すぎる考えだけど、王子が目指している未来はきっと理想的なものだから。
だったら私にできることは、一つしかない。
「わかりました……じゃあ、魔法の勉強、しましょう」
「はあ? 俺の話、聞いてた?」
「だから、魔法が上手く使えないから、勉強するしかないと思うんです。私は魔法なんて使えませんけど、一緒に勉強しますから。だから、一緒にその魔法、完成させましょう」
立ちあがり、意気込んで提案する。そんな様子に彼は呆然と私を見つめていた。上を向いているため、見上げていた頭からフードが落ちる。前髪から覗く綺麗な瞳が、大きく見開いて私を映していた。