背ける
痛みを感じながらもゆっくりと意識が覚醒していく。体が痛むということは、私はまだ生きている。決して幸運的な状況ではないけれど、生きているだけでもまだマシなくらいだ。こんなわけのわからない異世界で死んでしまったら、一生もとの世界に帰れなくなるかもしれないのだから。
ぼやけた視界の中、辺りを見渡す。木々が生い茂る中に、探していたカイ君の姿があった。エリヴィラ姫と一緒のところを見ると、偶然崖から落ちた彼女と居合わせたのだろう。随分と大変な目に遭ってしまったけれど、不幸中の幸いというやつだろうか。
だけど、随分と空気が緊迫しているように思う。カイ君の顔も強張っているし、エリヴィラ姫はこちらを鋭い眼光で睨みつけている。いや、正確には私を睨んでいるのではなく、その敵視は私を背負う一人の青年に向けられているのだ。
フレーメ帝国第一皇子、ゾラン・フレーメへと。
彼がなぜここにいるのか、なぜ私を背負っているのか。ちゃんと彼らに説明するべきだろうか、何しろ全身が痛くて意識を保っているのもつらい。申し訳ないけれど、その役目はゾラン王子本人に任せようと思う。
どこから落下したのか、どれくらいの高さから落ちてきたのか、今となってはどうでもいいし、わからないことを考えても頭が疲れるだけだ。
いい塩梅に木々がクッションとなってくれたのか、大した怪我にはならず一命を取り留めたようだ。崖から落下したときはさすがに死を覚悟したけれど、運が良かったとしか言いようがない。
全身が痛むのを感じながらゆっくりと体を起こす。周りを見渡してもエリヴィラ姫の姿はない。どうやら落下した最中に、お互いに別の場所へ落ちてしまったらしい。彼女も無事だといいけれど。
ゆっくりと立ち上がろうとするが、体を強く打ったせいで立つことさえままならない。こんな痛みは初めてだ。骨折はしていないだろうが、打撲とて軽視してはいけない。
立ちあがるのを断念して、しばらく体を休めることにした。もうすぐ夜になるのにじっとしているのは危険だけど、無理に動いて怪我を悪化させるよりはいい。溜息交じりに空を仰ぐと、ふと周りに生える木々に見覚えがあるのに気づいた。
「グルンの木……」
夜が近づいて、葉の表面が薄っすら光り始めている。カイ君が召喚したナット山脈ふもとに生える木々を見て、ここが山脈近くであることがわかった。ということは、正確に言えば現在地は、エイス王国の領土ではないのだ。
わかったところで助けが来るだとか、都合のいい話は転がっていないわけで。どれだけ注意深く周囲を見渡しても、何か見つかることもなく、ただ時間だけが悪戯に過ぎていく。
そういえば、こうして一人になるのは久しぶりだ。フレーメに拉致されたときも一時的に一人だったが、ゾラン王子やニケさん、リベルトさんとよく会っていたから一人という感覚はなかった。レーゲンバーグでは常にカイ君の傍にいたし、自室にいるとき以外はこんな静かな時間もなかったように思う。
この静かな時間が、なぜだかもとの世界での生活を思い出させる。日本にいたときだって友達や家族、向こうでのカイ君と一緒にいたから孤独だったわけじゃない。だけど、今この時間とあのときの時間はなんとなく似ている気がした。
セアドさんとゲルハルトさんはどうしているだろうか。カイ君は。エリヴィラ姫は。
心配というよりも、唐突に寂しさが込み上げてきて目頭が熱くなる。一人になった途端思い出すのは、今までこの世界で奮闘してきた自分の姿。大したことはやっていないけれど、それなりにこの世界に慣れようと努力してきたつもりだった。
だけど、今になって思う。私は少し、無理をしすぎていたのではないかと。
「馬鹿だなあ、私……」
自嘲の言葉を零した途端、不意に近くから足音が聞こえてきた。
もしかしたらカイ君かも、なんて淡い希望を抱きながら音のする方を見つめていると、足音は段々とこちらへ向かって、やがて一人の青年が姿を現した。
その姿にただ呆然と、目を丸くする。
「……ゾラン、王子?」
「……ん? アンナちゃんじゃねえか。んなところで何やってんだ?」
それはこっちの台詞だ、と言いたいところだが、思うように言葉が出てこない。どころか情けないことに、一人じゃなくなった安心感からか引いてきていた涙が再び瞳から零れそうになる。
泣きそうになる私を見て多少ぎょっとしつつも、ゾラン王子は傍に寄って様子を伺う。上着や靴が汚れたり破けたりしているのを見て、大体の事情を察したのか特に何も聞いてはこなかった。
涙を必死に堪えていると、彼の手が私の背中を優しく擦り始める。いつもならそのスキンシップに驚く物の、極限の状況下でようやく本来の安心効果が生まれ始めた。
二十歳を超えて久々に人前で泣くなんて、恥ずかしくて誰にも言えない話だ。
「それで、なんでこんなところにいるんだ? ここはナット山脈のふもとだぞ、一人で行動できるような場所じゃねえ」
「ゾラン王子こそ、なんでこんな場所に……エイス王国を越えなければ、こんなところには入れないはずですよ」
ようやく泣き止んだところで、お互いの状況を確認する。目の前にいるのは紛れもなくフレーメ帝国の王子だ。紛れもないからこそおかしいのだけど。
フレーメ帝国とエイス王国は敵対関係にある。それはエリヴィラ姫からも聞いているし、ちゃんと記憶している。だからこそ、フレーメの人間がこんな場所にいるわけがない。だけど確かに彼はここにいる。明確な矛盾だ。
最初から鋭い指摘を受けたゾラン王子は、苦笑いを浮かべながらも明後日の方向を見遣る。その様子から、恐らく国の意向ではなく彼自身の決断だと推測できた。
「ちょっくら現地に出向いて、グルンの木の性質や山の水の調査をしようと思ってな。つっても確かにエイスには立ち入りできねえわけだから、こうして隠れてこそこそ森林を歩いてるわけだ」
「潜入ってことですか」
「まあな。よく一人で国を出て各地に足を運んでんだ。リベルトには怒られるけどな……あと、可愛い女の子を探しに」
「……そっちが本音なんじゃないですか」
「かもな。まあどっちにしろ、頼むからチクるなよ。それで、アンナちゃんこそ何してるわけ」
「それは……」
再び思い出す嫌な記憶を振り切り、今までにあったことを話す。他国の王子に縁談の話をしていいものか迷ったが、それを言わなければ私たちがエイス王国にいる意味がない。
なるべく私情を挟まないように、かつ縁談相手を伏せてすべてを話し終えれば、王子は他人事のように相槌を打ちながら耳を傾けていた。まあ、実際彼にとって何の関係もないことだけど。
しかし私が崖から落下したことに関しては興味を示したようで、彼はおもむろに足に触れてきた。いきなりのことに慌てるも、怪我の状態を調べているのだとわかり胸を撫でおろす。
「立てるか?」
「ええと……」
「無理に嘘なんかつかなくていい。正直に言え。立てねえなら立てねえで、ちゃんと運んでってやるから。こんな樹海に一人置いてきゃしねえよ」
「……立てない、です」
その言葉を待っていたと言わんばかりに、彼は私を軽々と背負い始める。身長も結構あるので、私一人背負っていてもまだ余裕が感じられた。というか、これだけの山道を歩いてきてさらに人一人を背負うなんて、どんな体力の持ち主なんだろう。
まずは森林を脱出して、崖に待機しているであろうセアドさんたちと合流する方向で、彼は歩きだした。まだカイ君がこの森にいると決まったわけじゃないし、エリヴィラ姫もどこに落下したのかわからない。
整備もされていないけもの道を颯爽と歩くゾラン王子に背負われているというのがなんだか新鮮で、久々に人に背負われる感覚に安心感を覚える。
森の脱出の最中、唐突に王子が話しかけてきた。
「しっかし、あのお坊ちゃんにも縁談がねえ……まあ、直前逃亡っつーのはあいつらしいけどな」
「まだ早かったんですよ。部屋から出たばかりで、色んな刺激を受けて困惑してるんです」
「ほお、随分とお坊ちゃんの肩を持つな。そりゃあ、教育係だからか?」
「そう、ですけど」
「……アンナちゃんさあ。本当は、あの王子のことが好きなんじゃねえの?」
思いもよらない言葉に返事に詰まる。
この人は何を言ってるんだろう。確かに私よりもたくさん恋愛を経験してるのだし、冗談でこんなことを言うとは思えない。彼の性格上、冗談は言うだろうが、王子相手に好きだの嫌いだのと簡単に言える話ではない。
私がカイ君に恋愛感情を抱いているとでもいうのか。そう思っているのなら、それは間違いだ。カイ君に親しみを感じるのは、単にもとの世界での教え子とそっくりなだけだからだ。勝手な理由だけど、それが嬉しいから一緒にいるようなものだ。
そりゃあ、カイ君のことは色々心配だし面倒を見てあげたいとも思う。だけどそれは恋愛的な感情があるからとは思わない。
目の前の扉から一歩踏み出そうとしている彼を、ただ応援してあげたいだけだ。
「違います……私は、ただの教育係ですから」
「ただの、ねえ。そういうわりには、随分と仲良さげなもんだからさ」
「それは……」
「いくらなんでも堅苦しいのが苦手だからって、自分を名前で呼ばせる王子なんていねえと思うぞ。王子の方にも気があると思うんだがな」
彼がそういうのなら、そうかもしれないだなんて思ってしまう。
私の気持ちはともかくとして、カイ君が私を普通の教育係と思っていないというのは、あり得なくもない話だ。最初は異世界から来た人間だからだと決めつけていたけれど、本当にそれだけで名前で呼ばせるのだろうか。
それが恋愛かどうかはわからないけれど、きっとカイ君は、私に何らかの形で依存しつつある。
もしもとの世界に帰るときが来たら、そのときカイ君は。
「あの王子もそうだが、アンナちゃんも人を信じようとはしねえよな……」
「どうして、そう思うんですか?」
「だからさ、俺にはアンナちゃんは自分とは住む世界が違うからって、坊ちゃんを一人の男として見ないようにしてるようにしか思えねえってわけ」
「そ、それは……」
「違うって言えるだけの根拠でも、あるって?」
まるで、私がカイ君を好きだと周りからバレているとでも言いたげな言葉に、言いかけたことは喉に詰まる。
確かにカイ君を男の子として好きじゃないと言い切れるだけの根拠はない。だけどそれは、逆もまたしかりだ。彼に恋愛感情を抱いているという確証だって存在しないのだから。
大体私はもとの世界に帰るのが目的であって、いつまでもこの世界に留まるわけにはいかないのだ。ましてや恋愛をしにきたわけでもない。
この世界に来てからどれだけの時間が経ったかもわからない。けれどそろそろ、帰らなければいけないという漠然とした焦りも感じつつある。
「まあ、俺がとやかく口出しできることでもないけどな……っと。この先、何かいるな」
一定のペースを崩さず歩き続けていたゾラン王子の足が止まる。
彼の声に反応して耳を澄ましてみると、確かに草が擦れるような音が聞こえてきた。もしかしたらカイ君たちかもしれない、そう思うとなぜだか急に安堵が込み上げてきて、今まで溜まっていた疲れと共に意識がぼやけそうになる。
なぜだろう、今はもう何も考えたくない。




