婚約破棄のあと、踊れない伯爵様に恋をしました
「君と踊ると、いつも恥をかくんだ」
マクサンス様は、私の母の前でそう言った。
我が家の応接室には、彼の好きな焼き菓子を用意してあった。結婚後に住む屋敷の話をするはずだったので、私は朝から花を生け替え、窓際の椅子を二人分寄せていた。
彼はその椅子へ座るなり、別の令嬢を妻に迎えたいと告げた。
「嬉しくなると、すぐに声を上げて笑う。足が速くなると、はしゃぐ。もう少し慎みを持ってくれと、何度頼んだか分からない」
「この半年は、踊っておりません」
自分でも驚くほど小さな声になった。
母の扇が閉じる音がした。けれど、マクサンス様は私だけを見ていた。
「そうだね。だが、踊りを眺める顔まで不満そうでは、控えた意味がないだろう」
不満だったのではない。入りたかったのだ。
知っている曲が始まると、足が順番を覚えていた。友人がこちらへ手を振ると、一緒に行きたくなった。それでも、マクサンス様が嫌がるからと、私は椅子に座っていた。
彼が隣にいてくれる夜ばかりではなかった。私を残してほかの令嬢を誘いに行っても、社交には必要だと説明されたから、待っていた。
「私にも、もう少し落ち着いた方がいいところはあると思います。でも、踊って笑ったことを、そんなに恥ずかしく思っていらしたのですか」
「妻となる人には、ふさわしい振る舞いがある。今度の方は、そのあたりをよく分かっているんだ」
母が何かを言おうとしたので、私は首を振った。
代わりに怒ってもらったら、もう自分では口を開けなくなりそうだった。
彼を好きだった。踊りの途中で目が合った時、綺麗だと言ってもらったこともある。その一言が嬉しくて、次の夜会には何を着ていこうと考えていた。
いつから、笑い方を気にしてばかりいるようになったのだろう。
「婚約を破棄する、というお話ですね」
「ああ。君のお父上には、僕の父から申し入れる」
「承知いたしました。私からも、お父様にお伝えします」
マクサンス様は頷きかけて、私の顔を見直した。
もう少し泣くと思っていたのかもしれない。涙なら、出そうだった。けれど、それを彼の前でどう扱えばよいかまで、教えられたくなかった。
「ソレーヌ。最後まで、そういう態度なのか」
「どのようにお答えすれば、よろしかったのですか」
「少しは自分の至らなさを認めてもいいだろう。僕だって、君を傷つけたいわけじゃない」
私は膝の上で握っていた手をほどいた。
この半年、夜会を断る手紙を何通書いたか、彼は知らない。友人の婚礼でさえ、見るだけにした。その帰りの馬車で、よく我慢したねと笑ってもらい、喜んでしまった自分を思い出した。
「私は、好きな踊りをやめました。あなたに好きでいてほしくて。でも、やめた後の顔まで気に入らないのなら、もう、どうにもできません」
声が震えた。それでも、途中ではやめなかった。
「婚約は終わりにします。もう、あなたのお隣で踊りの輪を眺めていたくありません」
彼が身を起こした。椅子を寄せておいたせいで、思ったより顔が近かった。
私は立ち上がり、母の隣へ移った。
「お母様。両家のお話には、私も出ます。私が望んで終えることも、伝えさせてください」
「ええ。そうしましょう」
母は、ようやく彼へ向き直った。
私が謝れば穏便に済むという話にはならなかった。母は父へそのまま伝えると言い、彼が口にした言葉を、一つずつ確かめた。
マクサンス様は、ここまで険悪にするつもりはなかったと言った。けれど、寄せてあったもう一つの椅子へ、私が戻ることはなかった。
その晩は泣いた。
好きだった人に、楽しそうな自分を恥だと思われていた。そのことが、眠ろうとするたびに胸へ戻ってきた。
一週間後、婚約の解消が正式に決まった。私は彼へ返す品を母と揃え、最後に、届いたまま伏せてあった夜会の招待状を手に取った。
伯母の家の、小さな集まりだった。
「行ってもいいかしら」
母に尋ねると、母は私の手の中を見た。
「行きたいなら、お返事を書きましょう。私も一緒に行くわ」
私は机に向かった。
欠席の理由を考えなくてよい手紙を、久しぶりに書いた。
* * *
婚約を破棄された日から三週間後、私は従兄のジュールと踊っていた。
長く座っていた足は、思っていたより覚えがよかった。相手の手を取り、離れ、また向き直る。弦の音が速くなったところで、ジュールがわざと真剣な顔をした。
「ここから先、置いていかないでくれよ。姉に笑われる」
「置いていきません。私も、間違えたら教えてほしいもの」
そのすぐ後で、彼の方が一歩早く進んだ。
互いに踏みとどまり、顔を見合わせる。笑いがこみ上げた時、私は一度だけ、口を閉じかけた。
ジュールは先に笑っていた。母も、少し離れた場所でこちらへ頷いている。
私は次の拍子へ踏み出し、今度こそ声を上げて笑った。
曲が終わると、頬が熱かった。
ジュールを姉のところへ送り出してから、飲み物の卓へ寄った。給仕が水を持ってくるのを待つ間も、つま先で拍子を取っていたらしい。
「次も、同じ曲がよろしいですか」
すぐ横から声がした。
椅子に腰掛けていた男性が、私の足元を見て、それから顔を上げた。濃い茶色の髪に、少し笑った目。椅子の右側に杖が立て掛けてあった。
伯母が玄関で紹介してくれた、セラン伯爵だった。
「……見えていましたか」
「ええ。私もつられて数えてしまいました。最後のところが、まだ終わっていないようでしたので」
私は足を止めた。叱られたのではないと分かってから、かえって恥ずかしくなった。
「好きな曲なんです。久しぶりで、もう少し踊っていたくて」
「それでは、次の一曲も逃せませんね」
「伯爵様は、お踊りにならないのですか。もしお相手がお決まりでなければ――」
誘いかけたところで、彼の目が杖へ下りた。
「残念ですが、踊れないんです。昔、落馬で右脚を傷めまして。歩くことはできても、あの速さで向きを変えるのは難しい」
差し出しかけた手を引っ込めた。
座っている時の足元まで、見ていなかった。伯母から紹介された時も、私は新しい客に挨拶することに気を取られていた。
「存じ上げず、失礼いたしました」
「いいえ。誘っていただけたのは嬉しかった。先にお伝えすればよかったですね」
彼は隣の空いた椅子を示した。
「一曲分の休憩には、付き合っていただけますか。踊りのお相手はできませんが、お聞きしたいことがあるんです」
私は受け取ったグラスを持ち、隣へ座った。
彼が何を聞くのか身構えていると、彼は伯母の方へ目を向けた。
「デリーヌ夫人は、踊りながらでも全員にご挨拶をなさるんですね。先ほど、向かいの列から戻ってくるたびに、私は会釈をしてしまいました」
「伯母は、お返事があると、もう一度なさいます」
「やはり。途中でやめたら失礼かと迷っているうちに、一曲終わってしまって」
想像して、私は水を飲むのをやめた。
伯母はちょうど別の客と話していた。こちらの視線に気づき、離れた場所からにこやかに頷いたので、伯爵様もまた丁寧に頭を下げた。
我慢できずに笑うと、彼も笑った。
「これで今夜、何度目でしょう」
「お数えになっていたの?」
「六度までは。その後は、あなた方の踊りを見ていました」
グラスを持つ指に、少し力が入った。
あの、間違えて笑ったところも見られていたのだろう。
「ずいぶん騒いでしまいましたね」
「楽しかったのでしょう?」
私は彼を見た。
責める調子はなく、本当に返事を待っている顔だった。
「はい。とても。途中から、足が軽くなったようで」
「分かります。曲が終わっても、まだ動いていたい。私は昔、終わりのお辞儀を待てずに、相手を次の場所へ連れていったことがあります」
彼の話す調子が弾んだので、私は続きを尋ねた。
相手は彼の妹だったそうだ。二人だけ半回転多く踊ってしまい、妹から、そのお辞儀は誰にするつもりだと言われたのだという。
私は笑ってから、自分も稽古で似たことをしたと話した。黙って聞いていた彼が、その時の先生の顔を知りたがったので、私は怖い先生の口ぶりを真似てみた。
彼は一瞬目を丸くし、それから声を出して笑った。
次の曲が始まったのに、すぐには気づかなかった。
ジュールが私を探して近づいてきた時、伯爵様が先にそちらを見た。
「お迎えですよ。今度は、最後のお辞儀を忘れずに」
「伯爵様も、伯母へのご挨拶を」
私は言ってから、ずいぶん遠慮のない返事をしたと気づいた。
けれど彼は、承知しました、と真面目に頷いた。立ち上がった私を見て、少しだけ声を落とす。
「後で、続きを聞かせていただけますか。先生のお話が、まだ途中でした」
私はすぐに頷いた。
次の一曲が終わったら、戻ってきたい場所ができていた。
* * *
伯爵様の名前は、バティスト様といった。
次に伯母の家で会った時、私は挨拶より先に、あの先生は今もお元気なのです、と話し始めてしまった。
彼は私を見ると笑い、隣の椅子を示した。その顔だけで嬉しくなり、前の晩に考えていた上品な話題を、すっかり忘れた。
それから、会う機会が増えた。
伯母の茶会に招かれた日もあれば、私から、母と芝居を見に行くのでご一緒しませんかと手紙を書いた日もあった。
返事を待つ間は落ち着かなかった。踊りの途中で次の手順を忘れた時より、何度も玄関の方を見てしまった。
届いた返事に、ぜひ、とあるだけで、翌朝まで機嫌がよかった。
観劇の翌週、バティスト様が我が家へ来た。
母は同じ部屋で刺繍をしていた。私たちは、舞台に出てきた気の短い領主の話をしていた。人の返事を待たずに命令するので、召使いたちが別々の仕事を始め、とうとう誰も夕食を用意しなかったのだ。
「あの方、お腹が空いてからは、少しだけ人の話を聞くようになりましたね」
「ええ。ただ、食べ終わったら元に戻るだろうと思いました」
私が答えると、彼は眉を吊り上げ、胸を反らした。
「私の夕食はまだか。いや、答えなくていい。今すぐ持ってきたまえ!」
声があまりによく似ていて、私は笑いながら椅子の背へ寄りかかった。
母まで針を止めた。こちらを見たので、彼は慌てて姿勢を戻し、失礼しました、と頭を下げる。
「いいえ。私もそこが好きでしたの。続きをどうぞ」
母に促され、彼が困った顔をした。
舞台では、この後に妻が一言返していた。私は彼の方へ身を寄せ、声を低くした。
「お言葉どおり、誰にも答えさせませんでしたから、料理人も何を作るのか存じませんの」
バティスト様が吹き出した。
私はあまりうまく似せられなかったのに、彼は、そこまで覚えていたんですか、と笑っている。お茶を運んできた侍女まで入口で笑顔になり、私は頬を押さえた。
この方の前では、可笑しいことを思いつくと、言いたくなってしまう。
彼が笑う顔を見るために、つまらないと思われるかもしれない怖さより、聞いてほしい気持ちの方が大きくなる。
お茶を飲みながら、今度はどの芝居を見たいか話した。
彼は悲劇も好きだと言った。私は、最後にみんな死んでしまうものは苦手だと答えた。
「では、次は喜劇にしましょう。悲劇は妹と見ます。あの人は、帰りに筋を思い出して、もう一度泣くくらい好きなので」
「泣いている妹様のお隣で、どうなさるの?」
「たいてい、私も泣いています。馬車の御者には、いつも心配をかけていると思います」
私は笑った後で、その帰り道の話も聞きたいと思った。
自分と同じものを好きになる時だけ、この方が面白いわけではない。私の知らないところで泣いたり笑ったりする話を、もっと聞きたかった。
春の終わり、彼と伯母の庭を歩いた。
母と伯母が少し後ろにいて、私たちは池の手前の椅子へ腰を下ろした。バティスト様は杖を膝の横へ置き、花壇の向こうで遊ぶ子供たちを見た。
子供たちは歌に合わせて回っていた。手のつなぎ方が悪く、輪が一度ほどけたが、すぐにまた笑いながらつながった。
「今でも、踊りたくなるのですか」
尋ねてから、立ち入ったことだったかと迷った。
でも、彼は子供たちへ向けていた目を、そのまま私へ戻した。
「なりますよ。特に、楽しそうに踊る人を見ると。自分なら、どこで手を引くだろうとか、まだ考えます」
彼の右の靴は、左より少し前に出ていた。
事故のことを詳しく聞いたことはなかった。私は今、その靴から顔へ目を戻した。
「初めてお会いした夜、私、お誘いしましたね」
「嬉しかったと言ったのは、本当です。お受けできたらよかったとも思いました」
胸が痛んだ。
私も、この方と踊れたらと思うことがある。音楽に合わせて近づき、同じ拍子で振り向いたら、どんな顔をなさるだろうと。
それを考えることさえ申し訳ない気がして、今までは口にしなかった。
「ご一緒できたら、嬉しかったです」
バティスト様は小さく頷いた。しばらく、子供たちの歌が聞こえた。
私は膝の上の扇を開きかけ、また閉じた。何かうまく慰める言葉を探していると、彼が先に口を開いた。
「今日は、ここまで歩いたら休もうと思っていたんです。でも、椅子が埋まっていたら、あなたともう少し歩けるのに、とも考えていました」
私は隣の顔を見た。
「座ってお話ししていては、駄目ですか」
「いえ。ただ、歩き終わったら、お母様方のところへお返しするべきかと」
「では、もう少し、お返しにならないでください」
言ってしまってから、扇を落としそうになった。
彼は私を見たまま、口元を緩めた。さっきまで少し遠く感じた人が、急に近くなる。
「そうお願いしても、よかったんですね」
「はい。私、まだお話ししたいことがあります」
何だったか、一瞬忘れた。
思い出すまで待ってくれた彼が、急がなくていいですよ、と言ったので、余計に顔が熱くなった。
その帰り、母に、楽しそうだったわねと言われた。
私は頷いた。以前のように、はしゃぎすぎたかしらとは尋ねなかった。
会った後に思い出すのは、失敗した挨拶より、彼が笑った時に少し下がる目尻だった。
次には何を話そう。そう考えているうちに、また手紙を書きたくなる。
バティスト様と知り合って、二か月が過ぎた頃、友人エミーの婚礼の夜会へ招かれた。
彼も花婿の古い友人で、出席すると聞いた。会えるのが嬉しくて、私は招待状を母に見せた。
その後で、今度はどう過ごそうかと考えた。
エミーとは、最後の曲まで一緒に楽しもうと話していた。婚約中に彼女の誘いを何度も断った私へ、花嫁になるからには、今度こそ付き合ってねと笑ってくれたのだ。
でも、バティスト様は踊れない。
誰かと踊っている間、彼を一人にしてしまうのだろうか。私が席にいれば、その心配はない。
そう思った時、招待状を持つ指が止まった。
また、最初から踊らないつもりになっている。
今度の相手は、私に何も禁じていない。それなのに、好きになってしまった途端、先に諦めるものを探していた。
私は招待状を机へ置き、エミーの手紙をもう一度開いた。最後の曲は、二人で稽古したことのある踊りだった。
行きたかった。バティスト様にも会いたかった。どちらかを考えるたび、もう片方が消えるわけではなかった。
* * *
婚礼の夜会で会ったバティスト様は、私を見つけると、入口の近くで待っていてくださった。
淡い緑のドレスへ目を留め、よくお似合いです、と言ってから、少し考えたようだった。
「踊ると、もっと綺麗でしょうね。その裾」
私は、胸のところまで熱くなった。
鏡の前で回ってみた時、自分でもそう思ったドレスだった。母が横で、最初にそれをおっしゃるのはお上手ね、と笑ったので、彼まで照れた顔になった。
「晩餐では、お隣へ座ってもよろしいですか。花婿から、親しい者同士で席を選んでほしいと言われまして」
「はい。私も、そうしたいです」
それだけの約束で、踊りの前から気持ちが弾んだ。
母へ一言告げて、私はジュールのところへ行った。友人たちと列を作り、途中で花嫁とも手を取り合った。エミーは笑いながら、最後も忘れないでね、と囁いた。
その声に頷く時、私はバティスト様の顔色を確かめなかった。
晩餐の席には、彼の隣に一つ空いた椅子があった。
頬を扇ぎながら座ると、バティスト様が、花嫁はお元気ですね、と笑った。エミーは花婿の失敗した足取りを説明していて、その花婿が、後半は間違えなかったと懸命に言っていた。
彼も話の輪に入り、花婿が学生の頃から言い訳だけは早かったことを明かした。私は初めて聞く昔の話に笑い、彼のよく知った人たちの中にいるのが嬉しくなった。
皿が下げられた頃、彼がこちらへ少し体を向けた。
「明日、ご自宅へ伺ってもよろしいでしょうか。お母様に、お取り次ぎをお願いしたいのですが」
「私の家へ? もちろんですけれど……」
彼はいつもより慎重に、次の言葉を選んでいるようだった。
その時、花婿に名を呼ばれた。離れた席の年長の男性を紹介したいらしい。彼は私に小さく詫び、杖を取って立ち上がった。
話の続きは、また後で。そう言われ、私は頷いたものの、気になって仕方がなかった。
踊りが再開してから、私は二曲楽しんだ。
戻ると、バティスト様は広間の奥の長椅子にいた。私に気づいて顔を上げたが、晩餐の時より少し疲れているように見えた。
隣へ腰掛けると、彼は自分から言った。
「申し訳ありません。私は、そろそろ失礼しようと思います。今日は午後から動いていたので、思ったより疲れてしまって」
次の曲の支度をする楽団が見えた。
その後に、最後の踊りがある。エミーが花婿へ何かを教え、友人たちが笑っていた。
「では、私も――」
そこまで言って、止まった。
バティスト様が私を見ていた。言いかけた続きを待つように、黙っていた。
私は扇を膝に置いた。胸がどきどきしていた。彼を怒らせたことは一度もないのに、今から言う言葉が、ひどく我儘に思えた。
「私は、最後の曲まで踊ってから帰りたいです」
言えた途端、楽になるかと思った。でも、彼の返事を待つ方が怖かった。
「エミーと、約束しているんです。約束があるからだけではなくて、私も楽しみにしていて。今夜は母と来ておりますし、帰りの馬車も別ですから……」
説明を重ねている自分に気づき、口を閉じた。
彼の目が、踊りの列へ向いた。残念そうな顔をしたので、胸がきゅっと縮んだ。
やっぱり一緒に帰りますと言えば、その顔を見ずに済む。そう思いかけた時、彼がこちらを向いた。
「私も、まだあなたといたいです」
低い声だった。
「でも、今夜は、ここまでにしておきたい。椅子に座っていれば平気だろうと、少し長居をしました」
「ご無理をしてほしいわけではないんです」
「ええ。分かっています。だから、帰ると申し上げました」
彼は言ってから、少し困ったように笑った。
「あなたを見ていると、つい、もう一曲くらいはと思ってしまうんです。今夜も、何度かそうしました」
私は手を伸ばしかけ、膝へ戻した。
そばにいたかった。彼が帰るのは寂しかった。それでも、最後の曲を踊りたいと思っている。
こんなに両方を望んだら、好きだと言う資格がないのだろうか。
「バティスト様。私がほかの方と踊るのは、お嫌ですか」
彼はすぐには答えなかった。
楽団の音を確かめるように一度耳を傾け、それから私を見た。
「ジュール殿を羨ましいと思いました。あなたの手を取って、近くであの笑顔を見られるのですから。私も、そこに立ちたかった」
ジュールを羨ましいと言われたことが嬉しくて、私は彼の手を見た。寂しさの混じった声を聞き、今すぐその手を取りたくなった。
「ただ、あなたが踊るのを見なければ、その気持ちも消えるというものではありません。私の隣で、終わるのを待っていてもらっても……きっと、同じことを考えます」
彼の指が、杖の握りに触れた。
「私は先に帰ります。ソレーヌ嬢は、楽しんでいらしてください。それで、明日は会っていただけますか。先ほどのお願いは、まだ途中でした」
私は顔を上げた。
さっきの話が、ちゃんと続いていた。私が違うことを望んでも、取り消されてはいなかった。
「はい。明日も、あなたに会いたいです」
返事をすると、彼の肩から力が抜けた。
その顔を見て、私はようやく手を伸ばした。杖を持つ手ではなく、膝の上にあった左手に触れる。
「バティスト様。私、あなたが好きです」
彼の指が止まった。
言ってしまったと思うより先に、もっと伝えたくなった。今、彼に我慢してほしくない理由も、帰ってほしくない理由も、同じ人を好きだからだった。
「お会いする日が待ち遠しいんです。面白いことがあると、最初にお話ししたくなります。あなたが帰った後に、さっきああ言えばよかったとか、あの話も聞きたかったとか……そんなことばかり、考えていて」
彼が私の手を握り返した。
強く、すぐに少し緩めて、指の間へ自分の指を添える。その温かさに、声まで震えた。
「一緒に帰らないから、好きではないと思われたら、嫌です」
「そんなふうには思いません」
今度は、すぐに返事があった。
彼は手を握ったまま、私へ少し近づいた。
「私も、あなたが好きです。会う約束をいただけると、それまで何日あるか数えています。あなたが来る前に、何を話そうか考えて、いらしたら半分忘れる。今夜も、そうでした」
「……あんなに普通に、お話しなさっていたのに」
「普通ではありません。明日のお願いをするまでに、晩餐が終わってしまったでしょう」
私は笑った。
笑うと涙がこぼれたので、彼が驚いた顔をした。違うんです、嬉しくて、と言いながら、空いた手で目元を押さえる。
バティスト様も笑っていた。その目が少し赤く見えたけれど、確かめるより、もう少し手を握っていたかった。
「明日、ご両親にもお話ししたい。あなたと、これからも一緒に過ごしたいと」
私は何度も頷いた。
彼の手の甲を、親指でそっと撫でた。自分からこんなことをしているのが恥ずかしくて、それでもやめたくなかった。
「私もです。母に、今夜のうちに話します」
少し離れたところで、母が伯母と話していた。
私は膝の扇を取り上げ、彼と立ち上がった。母はこちらを見た。バティスト様が明日の訪問を頼むと、私の顔を一度見て、それから、昼過ぎにお待ちしております、と答えた。
私は彼を玄関の広間まで見送り、迎えに来た従者へ場所を譲った。
「それでは、明日」
彼が言った。
いつもと同じ別れの言葉なのに、今夜はその後に、私の名前が続いた。
「お待ちしています、バティスト様」
私は手を振った。
馬車へ向かう彼が振り向いてくれた時、声を潜めずに、また明日、と言った。
広間へ戻ると、エミーが両手を広げた。
「よかった。帰ってしまうかと思ったわ」
「最後まで踊ると、お約束したでしょう」
私は彼女の手を取り、列へ入った。
最初の音で、裾が足の周りを滑った。花婿がまた一歩早く進み、エミーが笑って引き戻す。私も笑い、次の相手へ手を伸ばした。
バティスト様がいた長椅子は、もう空いていた。
寂しかった。けれど、足を止めたいとは思わなかった。今夜の踊りを楽しんで、明日、あの人に会いたかった。
* * *
翌日の昼過ぎ、私は玄関の足音を聞いて、応接室の扉を開けた。
母に、そんなに急がなくても逃げないわよと言われた。聞こえたらしく、バティスト様が廊下で笑った。
「今日は、早く帰るつもりはありません。お許しいただけるなら」
「もちろんです。私も、今日はここにいたいです」
顔を見るだけで、昨夜の手の温かさを思い出した。
彼が長椅子に座って杖を置くのを待ってから、私も向かいの一人掛けの椅子へ腰を下ろした。父と母が同席していたので、いつものように隣へ行く勇気はなかった。
バティスト様は父へ、私と親しくさせてもらっていることを改めて話した。父が頷き、娘の気持ちを先に聞かせてほしいと言った。
彼は私へ向き直った。
昨夜あんなに話したのに、膝の上の指が少し落ち着かなかった。それを見つけると、私まで緊張してきた。
「ソレーヌ。私と結婚してください」
名前を呼ぶ声が、まっすぐ届いた。
「あなたと話していると、帰ってからも、続きを考えています。会って、笑って、時には違うことがしたいと相談して。そういう毎日を、あなたと過ごしたい」
私は頷き、今度は声にした。
「はい。あなたと結婚したいです」
バティスト様が目を閉じた。
ほんの一瞬だった。開いた時には、笑おうとしてうまくいかないような顔をしていた。
「よかった。昨夜、よいお返事をいただいたつもりではいたんですが、今日までは、どうしても落ち着かなくて」
「私も、もう一度お伝えしたかったです」
父が、よかったね、と言った。
私へ言ったのか彼へ言ったのか分からず、二人で返事をしてしまった。母が笑い、父も少し照れたように咳払いをした。
家同士で決めることは残っていた。けれど、私の返事は、誰かに直してもらう必要がなかった。
お茶が届いたところで、母が父を隣室へ連れていった。
扉は開いたままだった。私はお茶を一口飲むと、カップを載せた受け皿を持って、バティスト様の隣へ移った。
そばの卓へ受け皿を置いて腰を下ろすと、彼が驚いてこちらを向いたので、私まで笑ってしまった。
「そこにいると、遠いんですもの」
「それは、私も思っていました」
差し出された手を取った。
昨日と同じ手だった。でも、今日は帰り際のほんの少しの時間ではない。私は椅子の背に寄り、彼の指を見下ろした。
「最後の踊り、エミーが花婿をずっと引っ張っていたんです。あの二人は、きっと毎晩賑やかでしょうね」
「彼は学生の頃、何事も自分が先に決めると言っていました。昨日は、晩餐で何を食べるかまで、奥方に尋ねていたでしょう」
「ご覧になっていたの?」
「ええ。長年の友人として、感慨深いものがありました」
私は笑った。
彼も笑い、繋いだ手が少し揺れた。踊った話をしたら、彼の寂しさをまた刺激するかもしれない。昨夜までなら考えたことを、今は聞いてほしい気持ちの方が追い越していた。
エミーの裾が広がったことも、最後に全員で拍手をしたことも話した。彼は途中で尋ねたり、花婿の昔の失敗を付け足したりした。
話し終えて顔を上げると、ずいぶん近いところで目が合った。
「昨日も、今も、そういう顔を見ると困ります」
彼が小さな声で言った。
「どのような顔でしょう」
「嬉しそうに、こちらを見る顔です。もう少し近づいていただきたくなる」
私は繋いでいない方の手を、彼の肩へ添えた。
彼が身をかがめるのを待ちきれず、自分から少し近づいた。唇が触れた時、思ったより柔らかくて、驚いて目を開けた。
すぐそばで、彼も私を見ていた。
「……もう一度、お願いしても?」
頷く代わりに、今度は私から口づけた。
手が握り直され、彼の肩へ触れた指にも力が入った。離れると、二人とも妙に真面目な顔をしていて、それがおかしくなった。
私が笑うと、彼もとうとう笑い出した。
隣室から、母がお茶のお代わりを尋ねた。
私たちは同時に返事をし、顔を見合わせた。彼が空いている方の手でカップを取ったので、私も片手で持ち上げようとして、少し困った。
「一度、離しましょうか」
彼に尋ねられ、私は首を振った。
「お茶は、後でも飲めますから」
バティスト様はカップを卓へ戻した。
嬉しそうに私の手を包み直す、その顔を見ているだけで、また笑いたくなった。
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