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争いは好ましくありません

作者: 唯乃
掲載日:2026/02/25

「晩餐会まで、あと一時間です」


 侍女の声に、私、ミレイユ・アステルは鏡の前で小さく頷きました。


 今夜、私はこの城を、そして婚約者である愛しいレオンハルト殿下を「治して」差し上げるつもりでした。


 完璧主義で、常に自分を律し、周囲にも厳格さを求めるレオンハルト様。

 その瞳はいつも、誰かの過ちを探し、断罪の火を灯していました。

 そんな彼が、今夜の晩餐会で私の「婚約破棄」を華々しく演出する準備をしていることは知っています。

 男爵令嬢であるセシリア様を侍らせた上で、私を悪女に仕立て上げ、衆人環視の中で私を裁く。


……なんて、悲しく、そしてお疲れなのでしょう。


「争いは、よくありませんわ。レオンハルト様」


 私は鏡の中の自分に微笑みかけました。


 城中の人々には、すでにお願いをしてあります。騎士も、料理人も、父王様も。

 私の言葉は、彼らの心の奥底にある「攻撃性」という名の膿を優しく取り除いていくのです。


 大広間の扉が開いたとき、そこには明るすぎるほどの光が満ちていました。

 私が用意させた、穏やかな光です。


 レオンハルト様が上座に座り、鋭い視線で場を支配しようとしているのがわかります。


 でも、誰も彼を見ません。音楽は止まらず、会話は弾み、誰もが穏やかに食事を楽しんでいます。


「——ミレイユ・アステル!」


 突然、レオンハルト様が立ち上がり、私の名を呼びました。


 広間の空気が震えるほどの怒鳴り声。けれど、誰もフォークを止めません。

 隣のテーブルでは老貴族が笑い、給仕は淡々とワインを注いでいます。


「ミレイユ・アステル! 聞いているのか!」


レオンハルト様は何度も叫びました。


「ガルヴァン! 前へ! 証言せよ!」

「セシリア! ミレイユにされたことを話せ!」


 彼が名前を呼ぶたび、指名された方々はほんの一瞬だけ彼を見ました。

 でも、すぐに穏やかな微笑みを湛えて、皿へと視線を戻すのです。


 彼が用意した「断罪の舞台」は、もうどこにも存在しない。

 今のこの広間は、私の愛で満たされた静かな海なのです。


 レオンハルト様が、目に見えて動揺し始めました。

 自分の声が届かない。

 自分が王太子として認識されていない。

 その恐怖に、彼の喉が引き攣るのが見えました。


 私はゆっくりとスープを飲み終え、彼と目を合わせました。


「あの……。殿下が、何かお話しされていますよ?」


 私がきっかけを与えてあげると、ようやく世界が彼を認めました。


 楽団が止まり、全員がゆっくりと彼を振り返ります。


「そうだ。これだ。……貴様はセシリアを虐げ、王家の名誉を汚した!」


 嬉しそうに、彼は断罪の言葉を続けようとしました。


 でも、もう十分です。


「争いは……好ましくありません」


 騎士ガルヴァンが、穏やかに彼を遮りました。

 彼は何度も繰り返します。


 セシリア様も慈愛に満ちた目で彼を見つめました。


「殿下……争いは、よくありませんわ」


「……っ、何をした!」


 レオンハルト様は絶叫し、広間を飛び出して行きました。


 私はその後ろ姿を見送りながら、胸が高鳴るのを感じました。


 あんなに怯えた、迷子のような彼を見るのは初めてでした。

 母性がくすぐられるとは、このような感情のことを言うのでしょう。

 今こそ、彼に本当の救済を差し上げるときです。


 夜風の吹く城門の前で、彼は石畳に膝をついていました。


 王太子としての誇りも、私への憎しみも、この静寂の中では維持できないのでしょう。


「……誰もいないのか」


 彼の呟きは、涙が出るほど孤独に満ちていました。


私はそっと近づき、彼の隣でしゃがみ込みました。


「怒っていると、疲れませんか?」

 

「俺を心配するのか? ……なぜだ」


 彼は必死に私を拒もうとしましたが、その言葉にはもう力がありませんでした。


 私は彼の目を見つめ、心を込めて伝えました。


「怒っている人を見ると、悲しくなるので。……争わなくても、いいんですよ?」


 私はゆっくりと、温かな手を差し出しました。


 彼は、戸惑いながら、震えながら……最後にはその手を、ぎゅっと握り返してくれました。


 その瞬間、彼の瞳から「争い」の光が消えるのを見ました。


 ああ、愛しいレオンハルト様。


 もう何も考えなくていいのですよ。

 私が作り上げたこの平和な檻の中で、私と一緒に、ただ笑って過ごしましょう。


 それから、この国に争いはなくなりました。

 レオンハルト様は毎日、私の隣で「いい天気だね」と微笑んでくださいます。


 幸せ。


 ええ、これこそが、私の望んだ本当の幸せなのです。



2/25 23:00追記。

王子レオンハルト視点の短編「あの日、俺の世界は塗り潰された」を投稿しました。

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