争いは好ましくありません
「晩餐会まで、あと一時間です」
侍女の声に、私、ミレイユ・アステルは鏡の前で小さく頷きました。
今夜、私はこの城を、そして婚約者である愛しいレオンハルト殿下を「治して」差し上げるつもりでした。
完璧主義で、常に自分を律し、周囲にも厳格さを求めるレオンハルト様。
その瞳はいつも、誰かの過ちを探し、断罪の火を灯していました。
そんな彼が、今夜の晩餐会で私の「婚約破棄」を華々しく演出する準備をしていることは知っています。
男爵令嬢であるセシリア様を侍らせた上で、私を悪女に仕立て上げ、衆人環視の中で私を裁く。
……なんて、悲しく、そしてお疲れなのでしょう。
「争いは、よくありませんわ。レオンハルト様」
私は鏡の中の自分に微笑みかけました。
城中の人々には、すでにお願いをしてあります。騎士も、料理人も、父王様も。
私の言葉は、彼らの心の奥底にある「攻撃性」という名の膿を優しく取り除いていくのです。
大広間の扉が開いたとき、そこには明るすぎるほどの光が満ちていました。
私が用意させた、穏やかな光です。
レオンハルト様が上座に座り、鋭い視線で場を支配しようとしているのがわかります。
でも、誰も彼を見ません。音楽は止まらず、会話は弾み、誰もが穏やかに食事を楽しんでいます。
「——ミレイユ・アステル!」
突然、レオンハルト様が立ち上がり、私の名を呼びました。
広間の空気が震えるほどの怒鳴り声。けれど、誰もフォークを止めません。
隣のテーブルでは老貴族が笑い、給仕は淡々とワインを注いでいます。
「ミレイユ・アステル! 聞いているのか!」
レオンハルト様は何度も叫びました。
「ガルヴァン! 前へ! 証言せよ!」
「セシリア! ミレイユにされたことを話せ!」
彼が名前を呼ぶたび、指名された方々はほんの一瞬だけ彼を見ました。
でも、すぐに穏やかな微笑みを湛えて、皿へと視線を戻すのです。
彼が用意した「断罪の舞台」は、もうどこにも存在しない。
今のこの広間は、私の愛で満たされた静かな海なのです。
レオンハルト様が、目に見えて動揺し始めました。
自分の声が届かない。
自分が王太子として認識されていない。
その恐怖に、彼の喉が引き攣るのが見えました。
私はゆっくりとスープを飲み終え、彼と目を合わせました。
「あの……。殿下が、何かお話しされていますよ?」
私がきっかけを与えてあげると、ようやく世界が彼を認めました。
楽団が止まり、全員がゆっくりと彼を振り返ります。
「そうだ。これだ。……貴様はセシリアを虐げ、王家の名誉を汚した!」
嬉しそうに、彼は断罪の言葉を続けようとしました。
でも、もう十分です。
「争いは……好ましくありません」
騎士ガルヴァンが、穏やかに彼を遮りました。
彼は何度も繰り返します。
セシリア様も慈愛に満ちた目で彼を見つめました。
「殿下……争いは、よくありませんわ」
「……っ、何をした!」
レオンハルト様は絶叫し、広間を飛び出して行きました。
私はその後ろ姿を見送りながら、胸が高鳴るのを感じました。
あんなに怯えた、迷子のような彼を見るのは初めてでした。
母性がくすぐられるとは、このような感情のことを言うのでしょう。
今こそ、彼に本当の救済を差し上げるときです。
夜風の吹く城門の前で、彼は石畳に膝をついていました。
王太子としての誇りも、私への憎しみも、この静寂の中では維持できないのでしょう。
「……誰もいないのか」
彼の呟きは、涙が出るほど孤独に満ちていました。
私はそっと近づき、彼の隣でしゃがみ込みました。
「怒っていると、疲れませんか?」
「俺を心配するのか? ……なぜだ」
彼は必死に私を拒もうとしましたが、その言葉にはもう力がありませんでした。
私は彼の目を見つめ、心を込めて伝えました。
「怒っている人を見ると、悲しくなるので。……争わなくても、いいんですよ?」
私はゆっくりと、温かな手を差し出しました。
彼は、戸惑いながら、震えながら……最後にはその手を、ぎゅっと握り返してくれました。
その瞬間、彼の瞳から「争い」の光が消えるのを見ました。
ああ、愛しいレオンハルト様。
もう何も考えなくていいのですよ。
私が作り上げたこの平和な檻の中で、私と一緒に、ただ笑って過ごしましょう。
それから、この国に争いはなくなりました。
レオンハルト様は毎日、私の隣で「いい天気だね」と微笑んでくださいます。
幸せ。
ええ、これこそが、私の望んだ本当の幸せなのです。
2/25 23:00追記。
王子レオンハルト視点の短編「あの日、俺の世界は塗り潰された」を投稿しました。




