表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/4

選ばれた預言者

祇園ぎおんの茶屋に戻ったさきは抜けがらだった。

体だけがそこにあって、心は一度見てしまった格子の向こうにある世界から帰ってこれなくなっていた。

客の笑顔。

三味線しゃみせんの音。

夜ごとに繰り返される同じ会話。

すべてが、色彩を欠いた書き割りのように思えて、自問する。

─やっぱり、私の人生は、ここで終わるんだろうか?


西本願寺の境内けいだい

石畳いしだたみ

飛び交う命令の声。

あの場所にいた時間は短かったのに、

あの熱気に満ちた世界が、極彩色ごくさいしきの記憶として胸に食い込んで離れない。


ある日、さきが高々と積み上げたぜんを持って廊下を渡っていると、

顔見知りの芸妓げいぎから声を掛けられた。

「……ずいぶん早足どすなあ」

さきは、なぜそんなことを言われたのか分からず、小首を傾げてみせると、

芸妓はかんざしに手をかけながら、ため息をついた。

「うちは、お座敷が居心地良いごこちようなってしもて、もうあかん」

戸惑う咲に、芸妓は続けた。

「ま、おきばりやす」

言い置いて、女は座敷に入っていった。

咲はしばらく、その場に立ち尽くし、その言葉の解釈を試みたが、

結局、胸の奥に小さな引っかかりだけが残っただけだった。



そうして、ひと月が過ぎた。

季節は進み、風の匂いが変わった。

五月の湿った空気が、京を包む。

それでも、さきの中の時間だけが止まっていた。

ある夜、あかりを落とした部屋で、さきは一人、数を数えていた。

梁。柱。格子。

火事の夜に捨てたはずの癖が、いつの間にか戻っていた。

──逃げ道を探してる。

そう気づいたとき、胸が痛んだ。

逃げたいのではない。

戻りたいのだ。

さきは立ち上がった。

帯を締め、髪を整える。

理由はなかった。

あるとすればひとつだけ。

あの夜、

「お前に頼みたい」と言われた言葉を、まだ信じていたかった。


慶応元年、閏五月うるうごがつ十三日、夜。

西本願寺の空気は、いつもより重くよどんでいた。

いや、さきの心がそう感じさせただけかもしれない。

昼の熱を溜め込んだ石畳いしだたみが、夜気に冷やされ、じっとりと湿っている。

さきは、門の前で大きく息を吸った。

拒まれるかもしれない。

今度こそ、完全に。

それでも、さきは一歩、足を踏み出した。

境内けいだいにはあかりがともり、影が不規則に揺れていた。

太鼓楼たいころうの音が鳴る。

それはときを告げる音ではなく、何かが動き出したことを知らせる合図のように、さきには聞こえた。

(……来てしまった)

祇園ぎおんの夜よりも暗い。

だが、引き返す理由は、もうなかった。

あの場所から追い出されて、ひと月。

茶屋に戻っても、身体だけがそこにあり、心は戻らなかった。

一度、格子の向こうを見てしまったからだ。


集会所へと続く石畳いしだたみを歩くうち、隊士たちのざわめく声が耳に入ってきた。


「……聞いたか」

低い声。

膳所ぜぜ尊王攘夷派そんのうじょういはが、長州と通じて大樹公たいじゅこうしいする謀略ぼうりゃくを企てたらしい」

さきは、思わず身を強張こわばらせ、太鼓楼たいころうの影で息を潜めた。

「我々のお役目は?」


そこへ、まるで役者絵のような男が、長い総髪をなびかせて姿を現した。

どうやらかなり位の高い幹部らしく、隊士たちに緊張が走る。

松平容保まつだいらかたもり公から直々の命だ。新選組は直ちに、首謀者のひとり川瀬太宰かわせだざいの捕縛に当たる」

そう幹部が告げたとき、空気がはじけた。

隊士たちが一斉に動き出す。

足音。刀の触れ合う音。抑えた命令の声。

静寂を守っていた西本願寺が、一瞬で戦の色を帯びて沸騰ふっとうしていく。

(……もし、本当にこの中に間者かんじゃがいたら)

さきの背中に、氷のようなものが走った。

(この話が、長州に漏れたら)

将軍の命を狙う一派は、闇に紛れて姿を消してしまうかもしれない。

その瞬間、胸の奥で、あの声が蘇った。

――長州に関する情報があれば、山本時次郎に知らせろ。

咄嗟とっさに足が動きかけた――そのとき。


「そこで何をしている」

低く、冷たい声。

さきは、はっと振り向いた。

四番組・佐野七五三之介さのしめのすけが、闇の中に立っていた。

最初からそこにいたかのように、気配がなかった。

「……あ」

言葉が、のどで止まる。

佐野の目には、もはや疑念も迷いもない。

ただ、明確な線引きだけがあった。

「……でも、今のお話……」

「出て行けと言ったはずだ。お前にはもう関係ない」

短く、断ち切る言葉。

「聞いたところで、お前に出来ることは何もない」

佐野は、わずかに顔を背けた。

「今聞いた話を忘れて大人しく祇園ぎおんへ帰れば、盗み聞きの件は黙っておいてやる」

「……わかりました」

さきは、くちびるみ、小さく頭を下げた。

もう誰も、自分を引き留める者はない。

境内けいだいを出る直前、さきは立ち止まった。

(関係ない……?)

あの夜。

火事の中で、選ばれた気がしたこと。

胸に抱いた、小さな使命。

(それも、全部……)

――違う。

自分は、新選組の人間ではない。

下女でも、仲間でもない。

それでも。

(土方様から与えられた使命だけは、終わっていない)

それを果たせば――

もう一度だけ、格子の向こうへ戻れるかもしれない。

そう信じなければ、自分はここで、完全に終わってしまう。

さきは、きびすを返した。

向かう先は、河内狭山藩邸かわちさやまはんてい

使命を果たすことで復帰がかなうと、さきは信じたかった。

(私は、選ばれたいんじゃない。―選ばれたと、証明したい)

夜露に濡れた京の町を、さきは息を切らせて走り出した。


夜の京は、湿って、暗い。

石畳いしだたみは冷たく、足袋たび越しに震えが伝わる。

瓦の段、屋根の影、雲の切れ目。

いつものように数を数えながら、狂おしいほどに心臓を鳴らして走る。

それが自らを絞め殺す縄になるとも知らず。


河内狭山藩邸かわちさやまはんていの門は、巨大な獣の口のように固く閉ざされていた。

「……下女は通せぬ」

門番の声は、冷徹で感情を含まない。

「お願いします!」

さきは乱れた息を整える間もなく、必死に言葉をつないだ。

「山本時次郎様へ……どうしても、お伝えしたいことが……一刻を争うのです!」

向けられる疑いの視線。

だが、引き下がるわけにはいかなかった。

ここで退けば、自分を「選んでくれた」あの人の期待を裏切ることになる。

「ついさきほど膳所ぜぜ藩の攘夷派に捕縛命令が出たんです。けれど、京都守護職きょうとしゅごしょくの中に長州と通じる者がいて、彼らにその情報が筒抜けになっているかもしれない。早く報せなければ!どうか……どうか、必ず、山本様へ……!」

門番はしばらくさきの顔を黙って見定めていたが、やがて短く息を吐き、

「……伝言だけだぞ」 と言い捨てて、奥へ消えた。

その場に崩れ落ちそうになるほど、ひざが震えた。

夜風が火照ほてったほおでる。

(やった。これできっと私は……)

それが何を意味するのか、今の彼女にはわからない。

ただ、自分に与えられた唯一の役目を果たした――その安堵だけが、胸を支配していた。

だが。

さきは、気づいていなかった。

自分の背中を、抜き身のような鋭い眼差しが、ずっと追っていたことに。

佐野七五三之介さのしめのすけが、 闇に溶けるようにして、じっと立っていた。

挿絵(By みてみん)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ