選ばれた預言者
祇園の茶屋に戻った咲は抜け殻だった。
体だけがそこにあって、心は一度見てしまった格子の向こうにある世界から帰ってこれなくなっていた。
客の笑顔。
三味線の音。
夜ごとに繰り返される同じ会話。
すべてが、色彩を欠いた書き割りのように思えて、自問する。
─やっぱり、私の人生は、ここで終わるんだろうか?
西本願寺の境内。
石畳。
飛び交う命令の声。
あの場所にいた時間は短かったのに、
あの熱気に満ちた世界が、極彩色の記憶として胸に食い込んで離れない。
ある日、咲が高々と積み上げた膳を持って廊下を渡っていると、
顔見知りの芸妓から声を掛けられた。
「……ずいぶん早足どすなあ」
咲は、なぜそんなことを言われたのか分からず、小首を傾げてみせると、
芸妓は簪に手をかけながら、ため息をついた。
「うちは、お座敷が居心地良うなってしもて、もうあかん」
戸惑う咲に、芸妓は続けた。
「ま、おきばりやす」
言い置いて、女は座敷に入っていった。
咲はしばらく、その場に立ち尽くし、その言葉の解釈を試みたが、
結局、胸の奥に小さな引っかかりだけが残っただけだった。
そうして、ひと月が過ぎた。
季節は進み、風の匂いが変わった。
五月の湿った空気が、京を包む。
それでも、咲の中の時間だけが止まっていた。
ある夜、灯りを落とした部屋で、咲は一人、数を数えていた。
梁。柱。格子。
火事の夜に捨てたはずの癖が、いつの間にか戻っていた。
──逃げ道を探してる。
そう気づいたとき、胸が痛んだ。
逃げたいのではない。
戻りたいのだ。
咲は立ち上がった。
帯を締め、髪を整える。
理由はなかった。
あるとすればひとつだけ。
あの夜、
「お前に頼みたい」と言われた言葉を、まだ信じていたかった。
慶応元年、閏五月十三日、夜。
西本願寺の空気は、いつもより重く澱んでいた。
いや、咲の心がそう感じさせただけかもしれない。
昼の熱を溜め込んだ石畳が、夜気に冷やされ、じっとりと湿っている。
咲は、門の前で大きく息を吸った。
拒まれるかもしれない。
今度こそ、完全に。
それでも、咲は一歩、足を踏み出した。
境内には灯りが点り、影が不規則に揺れていた。
太鼓楼の音が鳴る。
それは刻を告げる音ではなく、何かが動き出したことを知らせる合図のように、咲には聞こえた。
(……来てしまった)
祇園の夜よりも暗い。
だが、引き返す理由は、もうなかった。
あの場所から追い出されて、ひと月。
茶屋に戻っても、身体だけがそこにあり、心は戻らなかった。
一度、格子の向こうを見てしまったからだ。
集会所へと続く石畳を歩くうち、隊士たちのざわめく声が耳に入ってきた。
「……聞いたか」
低い声。
「膳所の尊王攘夷派が、長州と通じて大樹公を弑する謀略を企てたらしい」
咲は、思わず身を強張らせ、太鼓楼の影で息を潜めた。
「我々のお役目は?」
そこへ、まるで役者絵のような男が、長い総髪をなびかせて姿を現した。
どうやらかなり位の高い幹部らしく、隊士たちに緊張が走る。
「松平容保公から直々の命だ。新選組は直ちに、首謀者のひとり川瀬太宰の捕縛に当たる」
そう幹部が告げたとき、空気がはじけた。
隊士たちが一斉に動き出す。
足音。刀の触れ合う音。抑えた命令の声。
静寂を守っていた西本願寺が、一瞬で戦の色を帯びて沸騰していく。
(……もし、本当にこの中に間者がいたら)
咲の背中に、氷のようなものが走った。
(この話が、長州に漏れたら)
将軍の命を狙う一派は、闇に紛れて姿を消してしまうかもしれない。
その瞬間、胸の奥で、あの声が蘇った。
――長州に関する情報があれば、山本時次郎に知らせろ。
咄嗟に足が動きかけた――そのとき。
「そこで何をしている」
低く、冷たい声。
咲は、はっと振り向いた。
四番組・佐野七五三之介が、闇の中に立っていた。
最初からそこにいたかのように、気配がなかった。
「……あ」
言葉が、喉で止まる。
佐野の目には、もはや疑念も迷いもない。
ただ、明確な線引きだけがあった。
「……でも、今のお話……」
「出て行けと言ったはずだ。お前にはもう関係ない」
短く、断ち切る言葉。
「聞いたところで、お前に出来ることは何もない」
佐野は、わずかに顔を背けた。
「今聞いた話を忘れて大人しく祇園へ帰れば、盗み聞きの件は黙っておいてやる」
「……わかりました」
咲は、唇を噛み、小さく頭を下げた。
もう誰も、自分を引き留める者はない。
境内を出る直前、咲は立ち止まった。
(関係ない……?)
あの夜。
火事の中で、選ばれた気がしたこと。
胸に抱いた、小さな使命。
(それも、全部……)
――違う。
自分は、新選組の人間ではない。
下女でも、仲間でもない。
それでも。
(土方様から与えられた使命だけは、終わっていない)
それを果たせば――
もう一度だけ、格子の向こうへ戻れるかもしれない。
そう信じなければ、自分はここで、完全に終わってしまう。
咲は、踵を返した。
向かう先は、河内狭山藩邸。
使命を果たすことで復帰が叶うと、咲は信じたかった。
(私は、選ばれたいんじゃない。―選ばれたと、証明したい)
夜露に濡れた京の町を、咲は息を切らせて走り出した。
夜の京は、湿って、暗い。
石畳は冷たく、足袋越しに震えが伝わる。
瓦の段、屋根の影、雲の切れ目。
いつものように数を数えながら、狂おしいほどに心臓を鳴らして走る。
それが自らを絞め殺す縄になるとも知らず。
河内狭山藩邸の門は、巨大な獣の口のように固く閉ざされていた。
「……下女は通せぬ」
門番の声は、冷徹で感情を含まない。
「お願いします!」
咲は乱れた息を整える間もなく、必死に言葉をつないだ。
「山本時次郎様へ……どうしても、お伝えしたいことが……一刻を争うのです!」
向けられる疑いの視線。
だが、引き下がるわけにはいかなかった。
ここで退けば、自分を「選んでくれた」あの人の期待を裏切ることになる。
「ついさきほど膳所藩の攘夷派に捕縛命令が出たんです。けれど、京都守護職の中に長州と通じる者がいて、彼らにその情報が筒抜けになっているかもしれない。早く報せなければ!どうか……どうか、必ず、山本様へ……!」
門番はしばらく咲の顔を黙って見定めていたが、やがて短く息を吐き、
「……伝言だけだぞ」 と言い捨てて、奥へ消えた。
その場に崩れ落ちそうになるほど、膝が震えた。
夜風が火照った頬を撫でる。
(やった。これできっと私は……)
それが何を意味するのか、今の彼女にはわからない。
ただ、自分に与えられた唯一の役目を果たした――その安堵だけが、胸を支配していた。
だが。
咲は、気づいていなかった。
自分の背中を、抜き身のような鋭い眼差しが、ずっと追っていたことに。
佐野七五三之介が、 闇に溶けるようにして、じっと立っていた。




