朝露
慶応元年、四月。
湿った夜気が肌にまとわりつき、石畳を踏むたびに夜露の冷たさが指先まで伝わる。
咲は胸元に折りたたんだ紙切れをしまい、西本願寺の屯所へと向かった。
夜の火災の記憶はまだ鮮明で、抱えられたあの腕の感触も、煤の匂いも、指先に残ったままだ。
―けれど今、胸を満たしているのは怖れではなかった。
甘く高鳴る緊張感。
自分が、誰かに選ばれたのだという実感。
屯所の門をくぐると、広大な境内が一気に視界へ流れ込んできた。
北集会所と呼ばれる大広間は、かつての寺院の静寂とは打って変わり、数百名の隊士たちが慌ただしく行き交っている。
三百畳を超える広間は仕切られ、小部屋が並ぶ。
居住区、詰所、竹矢来で囲まれた牢屋、処刑場。
太鼓楼の巨大な太鼓が、時折、警戒の合図として響き渡る。
「新入りの下女か?」
門番の男が短く問い質す。
咲は小さくうなずき、寺院からの推薦状を差し出した。
門番は紙切れに目を通すと、黙ってうなずき、彼女を屯所内へ案内した。
台所の奥。煮炊きの匂い。鍋の音。
洗濯物をたたむ下女中たちの静かな手際。
本堂で信徒が手を合わせる、そのすぐ近くで砲声が轟く。
怖い。
胸がざわつく。
それでも、思った。
この騒がしさの中でこそ、自分の目と耳は役に立つのだ、と。
最初の数日はぎこちなかった。
鍋や布巾の感触を確かめるだけで精一杯だったが、仕事をこなすうちに、咲は自分が観察者としての役目も担っていることを強く意識するようになった。
隊士たちの言葉の端々、行き交う視線、文書の置かれる場所。
そのすべてが、任務に直結する。
広大な屯所ゆえ、永倉新八や原田左之助といった幹部たちと直接顔を合わせることはほとんどなかった。
だが、四番組の佐野七五三之介だけは違った。
小柄だが、気の荒い二十代後半の男。
なにかと、咲に目を向けてくる。
「なんだそのへっぴり腰ぁ?その水桶、ひとつかせ。持ってやっから」
なにか重いものでも運んでいると、何処からかやってきて声を掛ける。
その鋭い眼に咲はいつも気おくれした。
「いえそんな。お手を煩わすわけには…」
「いいからよこせ!」
「はあ。ありがとうございます」
苦手な相手だ。
だが、妙に疑われるよりはと、咲はいつも厚意に甘えることにしていた。
夜。
一日の仕事を終え、帰路に就く。
境内を歩きながら空を仰ぐ。
月光に照らされる石畳。
遠くに聞こえる隊士たちの足音。
夜風に揺れる木々の影。
火災の夜、紙切れを握りしめた、あの瞬間の緊張が胸に蘇る。
―この人たちが成そうとしている仕事の一端を、ほんの一端を、わたしも担っている。
少しの畏れと緊張の混じった胸の高鳴りは、あの炎に追われた夜よりも、ずっと確かなものだった。
西本願寺の広大な境内、数百の隊士、飛び交う大砲の轟音――そのすべてが、日常と非日常が入り混じる異世界のように感じられた。
「やあ、お咲ちゃん。お疲れ様」
沖田総司という年若い幹部が縁側から手を振った。
なにか重い病を患っているそうで、屯所内でもあまり姿を見かけないが、彼だけは顔を合わせると優しく声をかけてくれる。
咲はほっとしたように微笑み、深く頭を下げた。
翌朝。
日が昇ると、西本願寺の屯所は一段と慌ただしさを増す。
咲は、布巾を手にしながら、目線を巧みに巡らせる。
隊士たちが文書を持ち運ぶ姿、帳簿や書類の置かれる場所、誰が誰と会話を交わすのか。
耳を澄ませば、太鼓楼の低い音が刻を告げ、石畳を踏み鳴らす隊士たちの足音は、紙の束を運ぶ物音と微妙に重なる。
「…おい、その文書に触れるな」
佐野七五三之介の荒い声が背後から降ってきた。
咲は咄嗟に布巾を握りしめ、後ろを向かず、奥に下がる。
だが、佐野は一歩、一歩、近づいてくる。
「おまえ、読み書きができるのか。それを読んだな?」
咲は思わず息を呑んだ。
「いえ。床几を拭くのに少し脇へ退けただけ…」
言い終えぬうちに、佐野は咲の両肩を鷲掴みにして顔を覗き込んだ。
「……面白い女だ。そんなに俺たちの仕事に興味があるのか?」
だがその威圧的な視線には、奇妙な感情が入り混じっていた。
疑念。
警戒。
そして、歪んだ好奇心。
咲は敏感に彼の邪念を感じ取った。
任務を優先するため、深く息を吐く。
その瞬間、咲の横に、白い着流しの沖田総司が立っていた。
まるで女のように美しい、青白い顔。
「おいよせ、その手を放せ」
沖田のかすれた声が、なぜか鮮明に響く。
佐野は一瞬目を見開き、うろたえた。
「…沖田さん?俺はただ…」
その声は震えていた。
沖田は咲を庇うように腕を肩に回した。
「…この子は土方さんの知り合いだ。素性ははっきりしてる。問題ないよ」
「そう、ですか」
佐野はうなるように身を引いた。
咲は背中に残る恐怖に、胸の奥で鼓動が跳ねるのを感じた。
「どうして……土方さんの事を?」
声はかすれ、震えている。
「……ああ、あれは出まかせだよ。なんだ、ホントにそうなの?」
沖田の青白い顔が、眩しい笑みを湛える。
咲は小さく頷いて、胸元に手を当てた。
迎えはまだ来ない。
佐野七五三之介の視線が変わったのは、四月のある日の午後だった。
それまでの粗暴な親切とも、あからさまな威圧とも違う――
値踏みするような、冷えた目。
「聞いていいか?お前は、ここに来る前、どこにいたんだ」
佐野の問いに、咲は一瞬だけ迷い、正直に答えた。
祇園の茶屋のこと。火事のこと。そして、救われた夜のこと。
「出来すぎだな」
佐野は冷淡に感想を述べ、
その場は終わったはずだった。
だが――
決定的だったのは、その翌日のことだ。
朝餉の給仕の最中だった。
咲は膳を運びながら、
広間の一角で笑い声を立てている男に気をとられた。
年の頃は三十前後。浪士風の身なりだが、どこか場違いなほど声が大きい。
「……摂津、大坂に住んじょった頃の話じゃがな」
男は箸を振り回しながら、得意げに語っている。
「御堂のそばに、ぶち当たると評判の易者がおっての。どんなもんか見てもらいに行ったんちゃ。そしたらその易者が言うんよ。『あんた、このままここに居りゃあ命を落とす。国に帰りさえすりゃ、運も向いて立身出世できる』って」
周囲の男たちが、相槌を打って先をうながす。
「わしが『あんた、それホンマか?』って詰め寄ったらな、その易者、頭をかきかきして……なんと『実はわし、内偵中の新選組の者なんよ』って白状しおったんちゃ!」
男は大口を開けて笑った。
「そりゃあもう、ぶちタマゲたよ!」
朝食の席がどっと沸いて、
「おーい!いったい誰だあ?その易者はあ?」
「ここにいるんじゃないのかあ?」
隊士たちがはやし立てる。
だが、咲の手はピタリと止まった。
(……今の言葉)
咲は、膳を置いたまま、男の顔をまじまじ見た。
「……あなた」
自分でも驚くほど、はっきりとした声だった。
「あなたのその言葉。長州の人ですね」
一瞬、場が凍りついた。
男は目を剥き、笑顔を引きつらせる。
「はあ!?そりゃあどういうこっちゃ!なんでお前なんかに、そんなこと言われにゃあいけんのんか!」
声を荒げ、立ち上がる。
周囲もざわめき始めたそのときだった。
「……ここに来て三日も経たないうちに、もう揉め事か?」
佐野七五三之介だった。
咲は、はっとして振り返る。
「けど、彼は……間者かもしれません。調べてください!」
自分でも、勇み足だと分かっていた。
だが、もう口が止まらなかった。
佐野は、男と咲を交互に見やり、短く言った。
「その必要はない」
咲の胸が、ひやりと冷える。
「この方は茶洗金作といって、古参である尾関さんの伝手から推薦を受けて面接に来られたんだ」
咲は言葉を失い、頭を畳に擦りつけた。
「…お、お許しくださいませ!大変失礼なことを…」
「もうええわい!」
茶洗は憮然として席を立った。
逃げるように広間を去った咲が、皿洗いをしながら自己嫌悪に陥っていると、
佐野が背後に立った。
「……彼は入隊を辞退したよ。おまえのせいで、みすみす有為の人材を逃した」
淡々とした言葉が、胸に突き刺さった。
(私は……)
土方からの密命に忠実であろうとした。
それだけだったのに。
「も、申し訳ございません!」
佐野は背を向けながら、冷たく言い放った。
「もういい。ここから出て行ってもらおう」
それで終わりだった。
その日のうちに、咲は台所の仕事から外され、
「明日から来なくていい」とだけ告げられた。
申し開きの機会さえ、もらえず。
西本願寺の門を出るとき、背後で鳴った太鼓楼の音が、自分を拒む音のように聞こえた。
誰かに必要とされていると感じた、あの火事の夜の高鳴りも、
すべては思い違いだったのかもしれない。
八嶋屋へ戻れたのは、あの沖田総司が口を利いてくれたおかげだった。
それだけがせめてもの救いだった。
「なんであんな大事にしちゃうかなあ。まあ、佐野らしいけど」
冗談めかした声。
けれど、その目は笑っていなかった。
「けど、正直わたしもこれでよかったと思うよ。君みたいな子は、こんな処にいちゃいけない」
あの言葉はどういう意味だったんだろう。
土方様に、なんと言い訳しよう。
祇園へ帰る道は、ひどく、ひどく長く感じられた。




