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格子の向こう

三条通りから少し外れた裏道に、祇園ぎおんの茶屋が並ぶ一角がある。

東谷咲ひがしたさきが寝起きしているのは、そのうちの一軒、「八嶋屋」の、奉公人にあてがわれた二階の小さな部屋だった。

窓には格子がはまっている。

用心のためだと聞かされていたが、さきには、ここが「仮住まい」である証のように思えた。

畳は薄く、夜になると下階の物音がそのまま響く。

朝は階下から立ちのぼる白粉おしろいと香の匂いで目を覚ました。

京の匂いだ、とさきは思う。

自分が育った土地にはこんな匂いなかった。

故郷くにから出てきて、八嶋屋の女中見習いとして半年。

さき、これ運びぃ」

さき、奥へ下がって」

その呼びかけは便利な記号であって、名前ではなかった。


だから夜になると、さき草双紙くさぞうしを開く。

刷り上がった紙の匂い、指先に残る、まだ乾ききらない色。

ある使命を背負い、異国から身分を隠してやってきた若殿。

彼は、町の片隅にいる少女を見出す。


――お前を連れてゆく。


その一言を、さきはずっと夢見ていた。

「…いつか、私にも」

独り言のように呟き、格子越しの空を見上げる。

かわらの段、屋根の影、雲の切れ目――

無意識に数を数える。

そうしなければ、自分がどこに立っているのか、わからなくなるから。


京では誰もが早口で、誰もが迷いなく歩く。

立ち止まっているのは、自分だけ。

(私は……ここに居る人間じゃない)

そう思うたび、胸の奥がきゅっとなる。


まだ十六才。

と言っても、

花街かがいの中で、若さは価値でしかなく、救いにはならない。

選ばれなければ、ただり切れていくだけ。

草双紙くさぞうしの姫君は迷わない。

選ばれた瞬間、運命は一本の線になる。

――もし、その線が自分にも引かれる日が来たなら。

さきはまだ知らなかった。

夢は、叶う瞬間よりも、信じて疑わない時間のほうが、ずっと甘く、ずっと残酷だということを。



元治二年三月二十六日、祇園ぎおんの夕暮れはいつもより騒がしかった。

鼻を突く、香とも白粉おしろいとも違う匂い――焦げる匂い。

「……火ぃや」

誰かの声が走ると、町全体が騒ぎ出した。

火はあっという間に屋根を伝い、赤い光を伸ばして祇園ぎおんの町を飲み込む。

あっちだ!

さきはほとんど直感的に駆けだしたものの、

人波に押し戻され、足がもつれる。煙で視界が利かない。


――落ち着かないと!


そう思って、無意識に空へ視線を漂わせる。

かわらはり――数えれば自分の進むべき道がわかるはず。

だが火の粉に視界は遮られ、息が詰まり、喉が焼け、足が止まった。

そのとき、強く腕をつかまれた。

「――こっちだ」

低く、落ち着いた声。

引かれるままに走る。息が切れ、視界が揺れた。

気づけば、誰かの腕の中だった。

抱えられている。その事実が、火の熱以上に胸に落ちた。

体温が着物越しに伝わり、指は自然とそでつかむ。

―あ、しまった。

柳亭種彦りゅうてい たねひこ草双紙くさぞうしに出てくる姫君なら、最初からこんなふうに抱かれたりしない。

慌てて指を離す。

視線が合った瞬間、胸の奥が小さく跳ねる。

「なぜあんな場所にいた」

鴨川縁かもがわべりの開けた場所に出ると、

男は咲を地面に下ろして、ぼそりと尋ねた。

「え?」

「あのとき、みな鴨川に通じる路地に殺到していたのに、おまえだけは逆の方に走っていたな?」

「あの風向きなら、火は向こうの路地に回ると思って…」

叫ぶ人波をよそに、さきは逃げ道を頭の中で組み立てていた。

「なるほど。なかなか機転が利くじゃないか」

男の口元に薄い笑みが浮かぶ。

「……あ、ありがとうございます」

声が震えた。

「役目だ。気にするな」

そのあとの沈黙さえ、さきには甘く響いた。

「ひとまず、皆のいる河原に降りて奉行所の沙汰を待つといい」

「あの、お名前を」

男は足を止めた。

振り返る横顔。黒い着流し、すすけていても乱れて見えない。

「聞いてどうする?新選組副長、土方歳三だ」

その瞬間、胸の奥で何かが音を立てて開いた。

瓦版かわらばんで何度も見た名――

人斬り。

鬼の副長。

都を護る、浅葱色あさぎいろの英雄。

通り過ぎる人々が、男を避けるように道を譲る。

だが今、その人は、火の中から自分を連れ出した。

――迎えが来た?

胸の奥で、そう思ってしまった自分を、止めることはできなかった。


振り返れば、さきが避けた路地には煙に巻かれた人々の遺体が点々と横たわっていた。

現実は残酷で、何も変わっていない。

だが、この出会いは物語の始まりだった。



さきの店は瓦や障子(しょうじ)が一部焼けた程度で火災の被害を逃れ、

数日後、営業を再開した。


夕暮れ、店の戸口を黒い着流しの影がくぐった。

「あ……」

火災の夜に救ってくれた男――誰もが「鬼の副長」と呼ぶ人物だった。

「少し気になって寄ってみた」

低く心地よい声。


その後も土方はおりに触れ店を訪れ、さきと短い会話を交わした。

そのたび、胸の奥で「誰かに選ばれた」という感覚がふくらむ。


ある日、通りまで見送ったさきを、

土方は真剣な眼差しで見つめて言った。

「…お前の機転を見込んで、頼みたいことがある」

また、心臓が跳ねる。

「実は、しばらくのあいだ、江戸に下ることになった」

「え」

さきの期待は落胆に変わった。しかし。

「新選組隊内に長州の間諜かんちょうが紛れている。留守中、隊内の者は信用できん。俺の目になってもらえないか?」

「それは…どういう?」

江戸出張中、通い女中として新選組で働き、隊内の様子を知らせてほしい――その依頼だった。

「長州藩になにか動きがあれば、河内狭山藩邸かわちさやまはんていの山本時次郎殿に知らせてほしい。そうすれば俺に早馬はやうまが届く」

恐怖と緊張。だが同時に、胸の奥に小さな火が灯る――必要とされている。

「……私で、いいんですか」

声は震えるが、希望も含まれていた。

「ああ。お前に頼みたい」

短い言葉に、さきは迷わず頷く。

土方は一歩距離を詰め、折りたたんだ紙切れを握らせた。

息が触れそうなほど近い。

「寺院と近しい者からの推薦状すいせんじょうだ。俺の名前では怪しまれるからな。中身を改めて、よく覚えておくんだ」

「はい」

さきは数を数える癖も忘れ、ただ土方の背中を見送った。

夜風が少し冷たい路地を抜ける。

――ここから、新しいなにかが始まる。

そんな予感がした。


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