「恋敵?」
とある日の昼過ぎ。
クレアは、業務が一段落し、小さく息を吐いた。
気づけば、昼食の時間はとっくに過ぎている。
軽く肩を回しながら、食堂へ向かった。
普段なら、この時間の食堂はほとんど無人。
だがその日は、食堂には珍しく先客がいた。
そこにいたのは、向かい合って座る怜と音だった。
どうやら2人も、今日は遅めの昼食らしい。
「2人とも、お疲れ様」
クレアは自然な笑みを浮かべながら声を掛けた。
「お疲れ様」
「おつかれさまっ!クレアちゃん」
クレアは小さく微笑み、そのまま冷蔵ケースへ向かい、並べられた牛乳パックを手に取る。
その時だった。
後ろの席の方から、2人の話し声がふと耳に入ってくる。
◆
「——テツ以外のブルドッグ、初めて見た」
怜がふと呟く。
「烈くんも、そんな朝早くからテッちゃんのお散歩行ってたんだね〜」
音がのんびりした口調で続けた。
「多分、その女性の飼い主さんに合わせて行ってるんじゃない?」
怜は特に深く考えず、淡々と言う。
——その瞬間
突然、凄まじい勢いでクレアがテーブルへ両手を叩きつけた。
怜と音の肩がビクッと跳ねる。
クレアはゆっくりと顔を上げ、震える声で言った。
「そ、そそそ……その話ィ〜……なんか気になるなぁ〜?」
本人は平静を装っているつもりだが、声は完全に動揺している。
そんなクレアの様子に、怜と音は困惑を隠せない。
「ど、どっちが見たのかなぁ〜……?」
引きつった笑みのまま、クレアが尋ねる。
「……わ、私だけど」
怜が答えた瞬間——クレアの首がグルンッと勢いよく怜へ向いた。
またしても驚く2人。
距離感が妙に近い。
「詳しく聞かせて?」
「え……あ、うん……」
その圧に押されながら、怜は話し始めた。
◆
怜はたまに、かなり早い時間に起きて散歩へ出かけることがあるらしい。
そして、ある日の早朝。
いつものように歩いていた時、遠くの方に烈とテツの姿を見かけた。
そこまでは特に珍しくない。
だが——
「隣に、女性がいた」
そして、その女性もブルドッグを連れていたらしい。
2人と2匹は並んで歩きながら、自然に会話をしていたという。
「なんか……とても仲良さそうだった」
その言葉に、クレアの表情がピクリと動く。
そして怜自身、遠目から見ただけだったが、それでも、“とても綺麗な女性だった”という印象が強く残っていたらしい。
「へぇ〜……」
クレアは笑顔を保ちながら相槌を打つ。
だが、その笑顔は完全に引きつっていた。
◆
怜の話が終わる頃には、クレアの目は、完全にグルグルになっていた。
「は、はひ……ありがと……」
魂が半分抜けたような声で、ふらふらとその場を後にする。
その後ろ姿を、怜と音はぽかんと見送っていた。
数秒の沈黙。
そして音が、小さく首を傾げる。
「クレアちゃん……どうしたんだろ?」
純粋に不思議そうな声だった。
「……さ、さぁ」
怜も困惑したまま答える。
「——あっ!」
突然、音が声を上げた。
「クレアちゃん、もしかしてさ——」
音は何かに気づいたように目を輝かせる。
「テッちゃん以外のブルドッグ、見たいんじゃないかな?」
怜は、妙に納得したように頷いた。
「……かもしれない」
2人は天然だった。
◆
夕方。
談話室では、閃と能勢がそれぞれのBW SPを手にしていた。
画面に映っているのは、“Car Beat!”という、ニャンダルの超人気レースゲームだ。
その2人の近くには、クレアもいた。
「——ってことなんだけど、何か知らない?」
クレアは怜から聞いた話を、そのまま閃へ説明していた。
「んー?知らないなぁ——うわっ!また負けたぁ!!」
閃はゲーム画面を見たまま叫ぶ。
「能勢さん強すぎるって〜!もう1回しよっ!」
「いいよぉ〜」
閃が悔しそうに言うと、能勢はいつもののんびりした調子で頷く。
閃はゲーム、特にニャンダル系にはかなり自信がある。
だが、能勢には一度も勝てたことがない。
能勢はジャンル問わずゲーム全般が異常に上手く、過去には大会での優勝経験も何度もあった。
その圧倒的実力から、閃や光井には“ゲームマスター”と呼ばれ、尊敬されている。
クレアは再び、じっと閃を見る。
「ねぇ〜、閃」
「ん〜?」
「新井くんの散歩とか、ついて行かないの?」
「たまについて行くことはあるけど、朝はないなー」
閃は視線をゲーム画面から外さないまま答える。
「行くとしても夕方くらいだし」
「あ、そう……」
クレアは、分かりやすくしょんぼりした。
「そんな気になるなら、朝の散歩、一緒に行ってみたら?」
「クレアだって、めっちゃ朝早く来るときあるだろ?」
「まぁ……そうだけど……」
クレアは歯切れ悪く答える。
「うわぁっ!!また抜かれた!?」
悲鳴を上げる閃。
「能勢さん!ちょっと手加減してぇぇ!!」
能勢は笑っていた。
◆
翌日の早朝。
烈はテツのリードを手に、散歩へ出ようとしていた。
すると——
「あっ、あっ!おはよう新井くん!こんな朝早くに散歩だなんて、奇遇ねー!」
やけに芝居がかった声とともに、クレアが現れた。
「よぉ、クレアも早ぇな」
烈は、そんなクレアの不自然さを特に気にする様子もなく、普通に返した。
「わ、私も実はっ、散歩しようかなーなんて……」
クレアは妙にソワソワしながら言う。
視線が若干泳いでいた。
「なら、一緒に行くか?」
烈は自然に言った。
「え、いいの!?」
クレアの声が一段高くなる。
「??当たり前じゃねーか」
烈は不思議そうな顔をした。
◆
クレアは、烈の少し後ろをトコトコと歩いていた。
朝の空気は静かで心地いい。
テツも上機嫌そうに鼻を鳴らしながら歩いている。
(例の人……今日、現れるかな……)
クレアはぼんやりとそんなことを考えていた。
すると——
「あ、小夜さん。おはようございます」
烈が足を止め、自然に声を掛けた。
「烈くん、おはよう」
柔らかく、落ち着いた声。
クレアは反射的に顔を上げる。
そこにいたのは、まるで“良家のお嬢様”をそのまま形にしたような女性だった。
艶のある黒髪ロングに整った目鼻立ち。
そして——品のある佇まい。
まさに“大和撫子”という言葉が似合う女性だった。
そして、その隣には——テツよりさらに大きいブルドッグがいた。
堂々たる貫禄。
(こ、この人が……!?)
クレアの脳が一瞬停止する。
すると小夜は、クレアの存在に気づき、穏やかに微笑んだ。
「あら、今日はお友達も一緒?」
「そっすね。クレアって言います」
烈はいつも通りの自然な笑顔で紹介する。
「初めまして、クレアさん。小夜と申します」
言葉遣いまで綺麗だった。
育ちの良さが滲み出ている。
「あはっ!は、初めまして!クレアです!」
クレアは慌てて頭を下げる。
若干声が裏返っていた。
「烈くんとテツちゃんとは、よく朝に一緒にお散歩してるの」
「よく、一緒に……」
クレアは小さく呟いた。
その言葉だけが、妙に頭の中で反響していた。
◆
「あ、この子はアルミって言うの」
小夜が、隣のブルドッグを優しく撫でながら紹介した。
どうやら女の子らしい。
(テツにアルミ……なんか元素記号みたい……)
クレアは頷きながらも、内心では別のことを考えていた。
そんなクレアの横で、テツとアルミは、すでに完全に自分たちの世界に入っていた。
ぶふぶふと鼻を鳴らしながら、お互いの顔を舐め合っている。
尻尾の振り方も異常だ。
どう見てもテンションが違う。
「初めて小夜さんと会った時よ——」
烈はその様子を見ながら笑う。
「テツが、見たことねぇくらいの勢いでアルミちゃんに突っ込んでってさ」
「めちゃくちゃ尻尾振ってて」
「で、今この調子」
テツは幸せそうだった。
「……ん?」
クレアはそこで、ふと何かに気づく。
「てことは、もしかして……新井くんがこの時間に散歩してるのって……」
「テツとアルミちゃんを会わせるため?」
恐る恐る尋ねる。
すると烈は、特に深い意味もなく普通に頷いた。
「ん?あぁ」
その瞬間——
(よ、よかったぁぁぁぁ……!!)
脳内で盛大にガッツポーズしていた。
その後、クレアは小夜と色々話をした。
話してみると、小夜は穏やかで話しやすく、気遣いも自然だった。
さらに、彼女は2児の母親でもあった。
そしてしばらく談笑したあと、小夜とアルミは先に帰っていった。
その後、オルフェへ戻る道中。
烈とクレア、そしてテツは並んで歩いていた。
だが——
「……ぶふぅ」
テツは、どこか寂しそうだった。
時折後ろを振り返り、小夜たちが去っていった方向を見つめている。
その様子を見て、クレアは思わず苦笑した。
どうやら、色恋沙汰だったのは烈ではなく——テツの方だった。




