第4話 先楽後憂 前編
「本日はお楽しみください」
華美ではなく、落ち着いたドレスに身を包みながら、クラウディアは大公女として、そして騎士団に所属するヴィルヘルムの婚約者として来客をもてなしていた。
同世代や年下の女性たちは、自らの顔を扇で隠しながら、騎士たちに羨望の眼差しを向けている。
中には談笑したり、ダンスを楽しむ者も多く、華やかな笑い声が広間に響いていた。
そんな令嬢たちを眺めつつ、クラウディアはメイドや侍女たちと共に、裏方として働いていた。
「殿下、ここは私どもにお任せください」
「もう少しだけ、やらせて頂戴」
ぎこちない笑顔でそう言うクラウディアに、侍女の隣にいたメイドは一瞬ためらうような表情を見せた。
しかし次の瞬間、侍女がそのメイドを睨みつける。
「ですが本来、殿下は主催者ではなく参加者のはずです。ここは私たちにお任せくださいませ」
侍女に頭を下げられ、クラウディアは小さくため息をつき、再びぎこちない笑みを浮かべてその場を離れた。
「大公女殿下も初めから参加すればいいのに……」
メイドがぽつりとつぶやくと、侍女は彼女を睨みつけ、裏へと連れていく。
「あなた、何もわかっていないようね」
「な、なんでですか?」
「殿下は私たちの手助けをしてくださっているのよ。ああして裏方に回って、一人でいる令嬢や騎士様の世話を焼いたり、全体の指揮を執ってくださっているの」
クラウディアは普段、冷静――むしろ無表情といってよい。
感情を表に出すことはほとんどないが、その行動は誰よりも誠実で、優しさに満ちていた。
「手抜かりがあれば叱責されるのは私たち。でも殿下は、細かく参加者を覚えていらして、配慮を欠かさず監督してくださるの。難癖をつけられたときも、私たちを庇ってくださるのよ」
「そうだったのですか……」
「あなたは新人だから知らないのね。でも大公家で働くなら、クラウディア殿下の悪口だけは絶対に言わないこと。殿下は冷徹に見えるけど、本当はとてもお優しい方よ。もし言ったら――」
「わかりました! 二度と失礼な態度はとりません!」
怯える新人メイドを諭すように叱りつけると、侍女はため息をついた。
「クラウディア様も、なぜ裏方に甘んじてしまわれるのかしら……いっそのこと、クラウディア様が」
大公になってしまえばいい。
そう言いかけて、侍女は口をつぐんだ。
率先して働き、気配りを欠かさず、誰に対しても公平な態度を貫く――そんなクラウディアを、共に働く女性たちは皆、深く慕っていた。
――――――――――
侍女たちに任せ、クラウディアはオレンジジュースを口にした。
本来は騎士団主催のパーティーだが、騎士団の者たちは事務能力に乏しい。
実務を担うはずの高位貴族の夫人たちも、まとめ上げる力を持たず、結局のところ全体を統括するのは大公家――つまりクラウディアの役目となっていた。
「お疲れのようですな」
優しく、それでいて力強い声。
振り向いた先には、燃えるような紅の髪をした若き宰相――エミリオの姿があった。
「宰相閣下もご出席されていたのですね」
「宰相ですから、こうした式典には顔を出さねばなりません。それにしても、大公女殿下自らお動きに?」
「殿下がご出席なさるのと同じことです。これが私の責務ですので」
表情を変えずに答えるクラウディア。だが、エミリオもまた疲れているように見えた。
「閣下、少々よろしいですか?」
クラウディアはエミリオを引き留め、メイドに耳打ちする。
しばらくして、メイドが一つのグラスを運んできた。
「こちらをどうぞ」
「これは?」
「薬用酒です。疲れが取れますよ」
クラウディアが差し出すと、エミリオは面食らった表情でグラスを受け取り、怪訝そうに口にした。
「味は期待しないでください。でも効果は確かです」
クラウディアもかつて飲んだことがある。
正直、味はひどい。だが、飲んだ瞬間から体が軽くなるほどの効き目があった。
「確かにすさまじい味ですな。歯磨き粉かハーブを混ぜたような……」
「お口に合わず、申し訳ありません」
クラウディアが頭を下げると、エミリオは大きく首を振った。
「とんでもない。お気遣いに感謝します。確かに効いてきましたよ。今にも走って帰れそうだ」
ユーモアを交えたエミリオの言葉に、クラウディアは思わずクスリと笑ってしまう。
すぐに我に返り、冷静な表情に戻った。
「ご無礼を」
「何かありましたか?」
「いえ、なんでもありません」
不思議そうに尋ねるエミリオに、クラウディアは静かに否定する。
視線を会場に戻すと、騎士団とその関係者は浮かれ騒ぎ、官僚や軍人たちはどこか居心地悪そうにしていた。
「気になりますか?」
エミリオが穏やかに尋ねる。クラウディアは視線を落とし、小さくつぶやいた。
「真相を知っている方々に、ご迷惑をおかけしましたね」
このパーティーは、冤罪を手柄とした虚構の祭典。
官僚や軍人たちの多くは招待を断っており、次官クラスも、大臣たちもダリオ侯を筆頭に欠席していた。
「彼らは仕事だと割り切っています。あなたが気に病むことではありませんよ」
微笑みながらも、エミリオの視線は酒越しに騎士団たちを鋭く射抜いていた。
その目には、怒りが確かに宿っている。
「申し訳ありません」
「謝らないでください。あなたの責任ではない。あなたは、少々気負いすぎるのです」
冷静で真面目なクラウディア。だが彼女は、決して傷つかない鋼鉄の人間ではない。
人の痛みに敏く、他者を思いやれる繊細な女性だった。
「閣下、先憂後楽という言葉をご存じですか?」
「ずいぶん渋い言葉をご存じで」
エミリオは思わず苦笑した。
だが次の瞬間、その表情は真剣に変わる。
「為政者は常に人よりも先に憂い、人よりも後れて楽しむ――。私はこの言葉こそ、為政者の道と信じています」
「確かに、その通りですな」
エミリオの顔に一瞬の曇りが浮かぶ。
それでもクラウディアは表情を崩さぬまま、静かに続けた。
「為政者たるもの、臣民よりも先んじて憂い、奔走し、臣民が安らかに過ごせるようになった後で初めて楽しむべきだと、私は思っています。閣下はどうお考えですか?」
「共感はいたします」
その言葉に、クラウディアはほんのわずかに眉を曇らせた。
宰相であり軍務大臣として国を支える男――ダリオ侯の私塾を出、幼年学校から士官学校を経て地位を築いた努力の人。
彼ならばきっと、この理念を共有してくれると思っていたのだ。
「閣下には、わかっていただけると思っていました」
それだけ言い残し、クラウディアは静かにその場を去った。
「しくじったか」
エミリオはメイドからワインを受け取り、一気に喉へと流し込む。
「自らの幸せを知らぬ者に、真の憂いは抱けぬというのに……。楽を知る者こそ、天下の憂いに先んじて立てるのだが」
ワインの残り香の中で、エミリオは独りごちる。
大公女として弟を補佐し、騎士団の実務まで支えるクラウディア。
彼女の能力を尊敬しながらも、同時に嘆いていた。
彼女自身が、そこまで苦労を背負う必要など、どこにもないのだから。
「やはり、あのネズミ小僧にはもったいないな」
誰にも聞こえぬようにそうつぶやくと、エミリオは再びワインを口にし、
クラウディアという女性のことを静かに憂うのであった。




