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第2話 捻じれた大公国 後編

「あなたは強く生きなさい」


 かつて母に言われた言葉を思い出しながら、クラウディアは自室で職務をこなしていた。


「ずいぶん溜まっているわね」


 業務用のポータブルデバイスには、本日も山のようにタスクが積み上がっていた。


 侍女が入れてくれた茶を飲みながら、彼女は次々に申請された業務を決裁していく。規定通りに上がってきた申請は淡々と処理し、規定から外れた申請に関しては躊躇なく却下する。


 本来これは、彼女ではなく大公である弟ファビオの仕事だ。


 だが、彼に任せると――却下すべき不備申請を承認し、規定に則った申請を却下してしまう。


 そのため、事実上、大公の決裁はクラウディアが代行していた。


「どうして定めた規定通りに申請できないのかしら?」


 ウェーブのかかった金髪のロングヘアを揺らし、思わず彼女は愚痴をこぼす。


 財務省や軍務省、内務省など官庁からの申請にはほとんど不備がない。だがそれ以外――特にマーメルス騎士団からの申請は不備だらけで、頭が痛い。


 最近の彼女は、不備のない省庁の申請を優先的に処理し、不備ばかりのものは後回しにしていた。


 そんな不備の山に頭を抱えていたとき、突然ドアがノックされた。執務中にもかかわらず、無粋にノックをするのは弟以外に一人しかいない。


「入りなさい」


「失礼しますよ」


 自分と同じ金髪の美青年が入ってくると、彼女は仕方なく作業の手を止めた。


「やあ、元気そうだね、クラウ」


 笑顔で、いかにも自分を気遣っているかのようにふるまう美青年に、クラウディアは心の中でため息をつく。


「ヴィルヘルム様、何か緊急のご用件ですか?」


 婚約者であるヴィルヘルムは、にこやかな笑みを浮かべた。


「ああ、君の顔を見たくてね」


「それのどこが緊急事態なのですか?」


 マーメルス騎士団の後始末をしているというのに、彼はクラウディアの苦労を理解することもなく、一方的に押しかけてきては時間を浪費させる。


「愛する人に会うのは緊急事態ではないのかな?」


「もしそうなら、そんな人々で構成された医師や警察官や軍人は、皆職務放棄してしまうでしょうね」


 やや嫌味を込めた口調で、クラウディアは顔には出さず辛辣に言う。執務中は忙しいからと何度も言っているはずなのに、ヴィルヘルムは一向に守らない。


 もっとも、これは彼だけでなく、マーメルス騎士団全体に共通していることでもあった。


「何か嫌なことでもあったのかね?」


「心当たりがないなら、別に構いませんよ」


 さっさと出て行ってほしいという気持ちを隠し、若干の皮肉を込めるのは、クラウディアなりの優しさだった。婚約者でなければ、とっくに怒鳴りつけている。


「ところでクラウ、君は本日のパーティーに出席してくれるかな?」


 金髪に透き通るような青い瞳、淡麗な容姿でささやくヴィルヘルムに対し、真面目なクラウディアは無表情のまま頷く。


「大公殿下も出席されると伺っていますので」


「それだけかい?」


「それだけ、というと?」


「我が騎士団が功績を上げたことに対して、大公殿下が賞賛してくださる。その記念のパーティーなんだ。もう少し何か……」


「そうでしょうか?」


 端的な返答に、ヴィルヘルムの淡麗な顔が歪む。


 クラウディアはすでに真実を知っていた。エミリオとダリオ侯から報告を受け、今回の“功績”が誤認逮捕だったことを。


「宰相閣下と内務大臣閣下より、今回の件はすべて確認しております。」


 エミリオとダリオ侯――彼とその父ライナルト公にとって政敵である二人の名を出すと、ヴィルヘルムの表情はさらに歪む。


「彼らの言うことを信じるのか?」


「私も裏を取りました。逮捕されたのは軍務省と取引のある商人で、内務省の協力者でもありました。我が国のために間諜活動を行っていた功労者です。それに、取り調べもずいぶん荒かったとか。要するに、いい加減な逮捕だったのです」


 彼女はダリオ侯とエミリオから受け取った資料を精査し、独自の伝手でも裏を取った。その結果、二人の言う通り、騎士団の誤認逮捕であることが判明したのだった。


「い、いやあ、騎士たちはどうも荒っぽくてね。」


「それで罪なき人を傷つけるのは筋違いでは? 今回の件はあまりにもお粗末なため公表されていませんが、嘘はあっけないほど露呈するものです。」


「まさか君が?」


「こんな恥を晒すことは、大公家はもちろん、このアヴァールの恥です。それを私が漏らすことなど、あり得ません」


 大公女として、事実上の摂政として政務を行うクラウディアも、この一件を暴露する気はなかった。


「それに、あなたは私の婚約者。その恥は私の恥にもなります」


 穿つような青い瞳に見つめられ、ヴィルヘルムは動揺する。まるで何もかもを見透かすようなその視線は、彼の胸にある疚しさまで射抜くかのようだった。


「そ、そうかい? それじゃ、またパーティーで会おうじゃないか」


「ヴィルヘルム様」


「な、何かな?」


「次からは、執務時間外に来てください。それから、申請の不備を減らすようにお願いします」


 そそくさと部屋を出ていくヴィルヘルムを見送りながら、クラウディアは結婚しても生活が変わらないだろうと実感していた。


 今は弟の尻ぬぐい、結婚すれば今度は夫の尻ぬぐい。誰かの後始末ばかりと思うと、正直うんざりする。


 だが、大公よりは公爵の尻ぬぐいの方がまだマシだろう。少なくとも公爵の職務が、大公の職務より多いことはない。


---


 クラウディアの執務室を出たヴィルヘルムは、宮殿の一室で一服していた。


「それじゃ、またクラウディア様から追い出されたというのですか?」


 一人の令嬢がティーカップを置き、憐れむように言った。冷たい印象のクラウディアとは違い、ダークブラウンの髪と赤い瞳が、どこか温かみを感じさせる。


「あ、ああ、そうなんだ。やっぱり彼女は冷たくていけないね。私のことより仕事が大事らしい」


 本来、それは大公女として正しい態度なのだが、自分を優先してほしいヴィルヘルムはため息をつく。


「可哀想なヴィルヘルム様。でも、それはクラウディア様にも落ち度がありますわね」


 穏やかで落ち着いた口調ながら、さりげなくクラウディアの非を指摘する。


「愛する人が来ているのですから、そこまで邪険にしなくてもいいはずですのに」


 柔らかい笑顔に、ヴィルヘルムは再び頬を赤らめた。


 婚約者のクラウディアにはいつも素っ気なくされるが、こうして幼馴染に優しくされると、心が癒される。


「わかってくれるか?」


「もちろんですわ。だって私、幼い頃からヴィルヘルム様のことを思っていましたもの」


「君が?」


 幼馴染の令嬢の言葉に、ヴィルヘルムはすっかり心を奪われた。幼い頃、二人は「結婚しよう」と言い合っていたのだ。


 本来ヴィルヘルムも彼女を想っていたが、先代大公の遺言により、半ば強制的にクラウディアとの婚約を結ばされたのである。


「君もずっと私のことを?」


「ええ、お慕いしていましたわ。幼い頃の話ですから、子供の戯れだったかもしれませんが、私は本気でした」


 彼女の真剣な言葉に、ヴィルヘルムは思わず彼女の手を握る。令嬢もわずかに身を竦めたが、その手を離さなかった。


「ならば、やはりこの婚約は破棄しようか。父上も今は反対していたし。」


「よろしいのですの?」


「ああ、これは先代大公殿下が決められたことだが、今はファビオ様が即位している。ファビオ様ならきっと認めてくれるさ」


 ファビオと妙に気が合うヴィルヘルムは、彼に気に入られていた。事情を話せば、婚約破棄にも賛同してくれるだろうと確信している。


「でも、私とクラウディア様とでは……」


「そんなことはない。ぜひ、私は君と一緒にいたいんだ。ダメかな? ヘルミーネ」


 ヘルミーネと呼ばれた彼女は、ヴィルヘルムの手を強く握り返した。


「ヴィルヘルム様がよろしければ」


「ああ、絶対に君を幸せにするよ!」


 こうしてクラウディアの知らぬ間に、彼女の婚約は密かに破棄され、ヴィルヘルムはヘルミーネに愛を誓った。


 ちなみに彼女のフルネームは、カタロニア・エル・ヘルミーネ、財務大臣であるカタロニア侯の娘であった。

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