押し入れのとびら
見えているのに、見てはいけないものがある。
気づいてしまったら、日常の隙間に入り込んでくる“何か”がある。
昼間の熱気も届かない、誰かの記憶の奥に沈んだ、ある部屋。
その扉は、今日もわずかに、開いている。
かとっちゃんには、よく笑う癖があった。
「それ、こわっ!」と話すたび、顔の半分くらい口を開けて笑う。
学童の中でいちばん親しみやすい大人だったかもしれない。母はそんなかとっちゃんと学童で話すことを、誰よりも毎日楽しみにしていた。
ある日、母はかとっちゃんにこう言われた。
「うちの押し入れ、ずっとちょっとだけ開いてるんだよね。毎回閉めても、また開いてんの。5センチくらい」
言いながら笑っていたけど、その時のかとっちゃんの目は、ほんの少しだけ笑っていなかったような気がした。しかし、その一言に、母の好奇心は1発でやられてしまったらしい。
怖い話の本を読みあさっていた当時の母には、「見に行きたい」が即決だった。
でも、かとっちゃんは大人だ。学童の先生で、いちおう「立場」もある。だから笑ってはくれるけれど、うんとは言わなかった。
そんなある日。
母がいつものように学童に行くと、かとっちゃんの姿がなかった。どうやら熱を出してお休みだという話だった。
絶好のチャンスだと思った。
そこで母は、ちょっとだけ悪い顔をして、ちょっとだけイイコじゃない決断をした。
お見舞いという名目で、ずっと気になっていた扉を見に行くことにしたのだ。
学童からかとっちゃんの家までは、徒歩で20分ほど。途中で何度か立ち止まって水筒を飲みながら、それでも母は、いつもよりずっと足取りが軽かったという。だって、あの押し入れが待っているのだ。
·····
ようやく辿り着いた場所にあったアパートはくたびれたような見た目をしていて、日なたに晒されているせいか、どこか白くかすんでいた。
その2階、一番奥の部屋のインターホンを押すと、少し間をおいてから、がちゃりとドアが開いた。
「え、なんで来たの……」
寝起きの髪をぼさぼさにしたかとっちゃんが、声をかけてきた。
母は「心配だったから」とだけ言った。たぶん、半分は本当だったと思う。
·····
部屋の中は、二間あった。
一つは、かとっちゃんが寝起きしている生活スペース。
もう一つは、少し狭い収納部屋。クローゼットもあるけれど、奥には年季の入った押し入れがあった。
あの扉は、その収納部屋にあった。
ふすまが、ぴたりと閉まっていない。
ほんの5センチ。
人の手が入るか入らないかくらいの隙間。
でも、いつ見ても、閉めても、また開いている。
「これ、いつもなの?」と聞くと、
「そう。別に実害はないけど、なんか気持ち悪いんだよね」と、かとっちゃん。
天井を見ると、うっすらと土っぽい足跡が残っている。
室内の、それも押し入れの天井。
どう考えても不自然だった。
「閉めてみてもいい?」
そう尋ねると、かとっちゃんは寝室に戻りながら「どうぞ〜」と軽く返した。
母はひとりで押し入れの前に立ち、ぎぃ、と音を立ててふすまを閉めた。
ぴったりと閉まった。
ちょっと安心した母は、押し入れに向かって、笑いながら指をさして言った。
「もう!開かないでよね!」
そのときだった。
隣の部屋、つまり寝室から、かとっちゃんの声が聞こえた。
「何かあったのー??」
母は押し入れに目を向けたまま、「なんにもー!!」と返事をした。
そして、何の気なしに、ふすまの方を見た。
……押し入れが、全開になっていた。
今さっき、自分が閉めたはずのふすまが、音もなく、そこに口を開けている。
中は、真っ黒。
奥が見えない。
それでも何かが“こちらを見ている”と感じたらしい。
何も言えなかった。呼吸がひゅっと浅くなった。ただそのまま、何も言わず家を飛び出した。
サンダルの音だけが、アパートの廊下に響いた。
·····
その次の日。学童であったかとっちゃんに母はちゃんと謝った。
けれどあの日、押し入れの奥で感じたことは、結局言えなかった。
かとっちゃんにも、その後、あの押し入れのことは聞けなかったそうだ。
あれがただの勘違いだったのか、そうじゃなかったのか。
本当のところは、今も母しか知らない。
ほんの少し、たった5センチ。
扉が開いていたのは、それだけのはずだった。
けれどその隙間から、なにかがこちらを覗いていたとしたら?
声をかけたのは、寝室のかとっちゃん――
それが本当に“かとっちゃん”だったのかどうか。
母からその話を聞いた時たくさんの思考と想像が巡った。