第10話 「その噂、聞いたことがありますヨ」
パウルくん、お気に入りです。
「ない……ない……あの記載が──どこにも──」
クリスは、ページをめくるたびに、額に汗をにじませていた。
図書館や、職場の過去の記録を何度も調べた。でも、”それ”は存在しない。
クリスが、唇を噛む。
そのとき、部屋がノックされた。
クリスが慌てて、書類を引き出しに隠した。そして唇に歯の跡がつかないように、手の甲で唇を擦る。
そして、一呼吸おき、襟を正した。
「……どうぞ。入ってくれ」
「クリス先生、セナです」
「セナじゃないか!」
クリスは早足にセナにかけよった。
「聞いたよ。爆発にまきこまれたって。体は大丈夫かい?」
暫くぶりに見る顔は、事故なんてなかったような雰囲気だった。本人は、けろっとした顔をしている。
「はい、もう平気ですよ。心配おかけしました」
「よかった……」
クリスは、胸をホッと撫で下ろした。
「君の様子を見に行こうとは思ったんだが、ちょうど出張に行っていて。そのまま日にちも経ってしまったし、近々連絡しようとおもってたんだ」
「そうだったんですね。ありがとうございます。お気持ちだけ受け取っておきます」
「あの、これ、借りていた本です。ありがとうございました」
「あ、ああ、そうだったね。すっかり忘れていたよ」
クリスが、本を受け取る。
「セナ、お茶でも飲んでいくかい?」
「いえ、ちょっと最近いそがしくて……本が借りたくなったらまた来ます」
「そうか、わかった。ではまた今度寄ってくれ」
セナが扉を締めたあと、クリスは肩の力を抜き、ポケットに手をいれた。
そこから、壊れた懐中時計を取り出し、静かに見つめる。文字盤のガラスに、ヒビが入っている。
針は止まったまま、もう動く気配はない。
彼の指先は、微かに震えていた。
その時計は、“あの日”から、一度も動いていない。
* * *
「セナ、ちょっといいか?」
セナがクリスの研究室から、作業場へ戻っている途中、クラウスに呼ばれた。
数歩先を歩き出したクラウスの足取りは、わずかに緊張しているようだった。
「……教会から、正式な調査官が来ている」
セナの背筋に、緊張が走った。
クラウスの後をついていく。作業場の近くの廊下で、見慣れない小柄な男が立っていた。
男の背筋は妙に真っすぐで、手には一枚の封筒を持っていた。
「いやー、いやいや、まさかこんな立派な場所に……。私のような者が、お邪魔していいものかと……ネェ?」
「……セナ、この方はパウル・マルシェ監査官補佐だ」
「……どうも」
男は、セナを一瞥して、続いて封筒をセナに渡した。
「教会本部より正式な通達を預かっておりますヨ。ええ、もちろん、敵意など微塵もございませんので……!」
セナは封筒を開き、中を確認する。
そこには、確かに前回の魔法陣爆発の懸念点を払拭するため、監査役を派遣すると書かれていた。
中には、以下の文章が含まれていた。
『伝統的な儀式の形を変えてはならない』『精霊への敬意を欠いている』
『伝統を守るため』『精霊への敬意を損なわないため』
……おそらくこのパウルは、保守派の人間なのだろう。
魔法陣爆発の原因はまだ「調査中」として、公開していない。
表向き、報告書には以下のように記載している。
『魔法陣の爆発は、魔工具の魔力拡張による暴走が原因とみられます。
構造上の欠陥か、旧型との干渉による不安定化が疑われていますが、現在も内部調査中です』
……こんな曖昧な説明では、納得するはずがない。
どこから爆発したのか?はわかったが、
内部で魔法陣に細工をした者がいるのか、外部にいるのかについては、まだ何もわからないからだ。
何もわからない状態で説明するよりは、しばらく調査してから結果を説明したほうがよい、とのことだった。
幸い、あれはテスト段階だったので、本番用ではない。安全対策を強化すると伝えればよい。
私は、「人為的な細工はあった。でも、誰かはわからない。それをそのまま伝えればよいのでは?」とクラウスに伝えた。
しかし、クラウスは「まだ話すべきではない」と言う。
「今はまだ、“確実な情報”ではない。それを伝えれば、無用な誤解を生むだけだ」
とのことだった。
他に手がなかったのも事実だ。それは理解している。
しかし、教会からの信頼が揺らいだの明らかだった。もしかしたら、何かを隠しているのかと思われたのかもしれない。
* * *
「ええ、もちろん、疑ってなどおりません。ただ……本部がですね、念のために、ということで……。ええ、ええ、私としては、できれば穏便に済ませたいんですよ、ホントに」
「……」
あきらかに、教会の保守派から疑われている。
ここは、受け入れるしか無い。
納得してないからこそ、この人が来たんだろう。
「わかりました。こちらも、何かあれば協力させていただきます」
セナは抑揚をつけず言い放った。
「……で、その、私としてはネ?
やはり一度、現場をこの目で見ておくべきかと……思うワケなんですヨ」
監査官補佐のパウルは、クラウスとセナの間で、両手をもみながら喋っている。
引きつった、卑屈な笑顔が二人にむけられている。
「現場とは、あの爆発現場のことですか?」
クラウスが、眉をひそめた。
「そうです、ええ。もちろん……ただ見るだけ。見るだけですヨ。
ええ、ええ、私も詳しくはわからないですからネェ。
……ただ、教会としての報告義務というか、こう、確認を……」
クラウスが、少し何かを考え込んでから、こう続けた。
「……一度、解呪師たちに相談しましょう。
あの現場は、現在は彼らが管理しています」
クラウス、パウル監査官補佐と一緒に、解呪師の詰め所に行くことになった。
* * *
「駄目だ。あそこは立ち入り制限区域になっている」
ダミアンの声が、静かに響いた。断固とした意志を感じる。
「現在も、残留魔力が残っている。一般人は近寄れない」
「ええ、ええ、それはわかっているのですが……教会としての報告義務がありましてネェ……」
パウルはダミアンの容赦ない威圧に、恐怖しているようだった。
「ですから、えっと、案内していただけるのであれば、あくまで遠巻きに、見るだけ……で……」
「……ジャンさん、これ、案内するんすかね?」
マルコが、ぼそっと問いかけた。その声には、明らかに”嫌そう”という意志が含まれていた。
「案内?悪いが、そりゃ無理だ。 そこは、俺等でも慎重に動いてる場所なんだ。
こんな奴を入れたら、また事故になるぞ?」
それを盗み聞きしていた、パウルの視線が泳いだ。
「え、そ、それは……そりゃ、確かに……そうですね……ネェ?」
完全に、引いている。現場は怖いのかもしれない。
「……では、資料と報告書を中心にご確認ください」
クラウスが、パウルに助け舟をだす。
「ええ、ええ! それが一番、良いですネ。はい。資料、大事。安全第一」
「セナ。監査官を資料室に案内してくれ」
クラウスが、目でセナに合図する。……これは意図があるとセナは感じた。
「わかりました。……では監査官、こちらです。ついてきてください」
セナは抑揚なく答えた。――ため息は、誰にも気づかれない程度に短かった。
セナにつれられて、パウルは去っていき、曲がり角で視界から消えた。
「……また、ああいう”権威”って感じの人ですか……」
マルコが、眉間をしかめてつぶやく。
「面倒なこと、おこさなきゃいいけどな」
ジャンがそう言い、ため息をした。
パウルと十分な距離ができたことを確認して、クラウスが、ダミアンに向き直った。
「……パウルは、まだ何も掴んでいない。 だがこのままでは、こちらの足並みも乱されかねん」
「……ああ」
ダミアンが、クラウスに頷いた。
「正式な報告として出せる段階か?」
「……まだ無理だ。これは根が深い」
「わかった。……だが、こちらの判断を待ってはくれないだろう」
* * *
パウルの初仕事は拒否され、資料室に缶詰になることとなった。
セナが資料室にパウルを案内し、目的の資料を用意している時だった。
パウルが急に、わざとらしく不快な咳払いを始め、セナに問いかけた。
「……ところで……セナさん……と、いいましたっけ?」
「はい。セナです」
パウルが一瞬だけ、こちらの反応を探るように目を向けた。
「噂、聞いたことありますヨ」
一拍おいて――
「……研究所の中には、“咎落ち”も……いるとか?」
「……誰が……そんなことを……?」
「いや、噂話ですヨ。気にしないでください……ネ。――では、引き続きよろしくお願いしますネ」




