逃げんとする者達、逃すまいとする者達
苛性ソーダ、という物質がある。
化学式NaOH、いわゆる水酸化ナトリウムと呼ばれる無機化合物の別名であり、現代においては様々な製造現場で用いられる化学薬品である。
その用途の広さに比例するかのように危険性も極めて高く、皮膚に当たれば熱傷、目に入れば失明。吸引すれば気管に重篤なダメージをもたらし引火性まであるという、劇薬だ。
そんな危険極まりない苛性ソーダを、こともあろうに体内にて生成し毒液として尾の先端から吹き出すモンスターがいた──それが今、エリス達の眼前に現れた苛性ソーダ・スコーピオンである。
後の世においては存在が確認された時点で、WSOの専門討伐隊による速やかな特殊作戦行動が行われる"特定有害モンスター"に指定されているという、恐るべき化物であった。
「ぎちぎちぎちぎちぎちぎちぎちぎち────」
「なんかやべえぞこの蠍ッ! おうエリスちゃんにシモーネ、間違ってもあの体液にゃ触れんな、嫌な予感しかしねえッ!!」
「わ、分かってますけど、火野が逃げて……っ!!」
「イルベスタ・カーヴァーンも!? あの蠍を、まるで操っているみたいに……!」
劇薬の仔細など当然、さほど詳しくないレベッカだがいかにも凶悪な巨大蠍が放つ禍々しい色合いの液体を見れば、嫌でもそのおぞましい殺意を感じ取って警戒を呼びかけるほかない。
あの液体はまずい……探査者としてどれだけ強靭な体であっても関係ない、一撃必殺の威力を秘めているように直感できる。単なる勘だが、だからこそ彼女はその勘に従い叫んでいた。
火野の精神攻撃を受けていたシモーネも、その悪意から彼女を護ろうとしていたエリスもその声に応える。
しかしどうしてもその視線は、今しがた戦っていた男とそこに駆け寄るもう一人、つい先程現れたイルベスタへと向けられるのだった。
このままでは逃げられてしまうという、焦りの感情とともに。
「火野、退くぞ。案の定だが、やはりこの程度の規模のモンスターではもはや誰一人止められなくなっているか」
「へ、へへ、へ。感謝するがせっかく良いところだったのに、とも言わせてもらうぜカーヴァーン……おうさ、何よりもやっぱりモリガナの成長ぶりがすげえキクぜ。あのフィンランドの田舎村ン時は、不意を突いてようやっと俺を半殺しにできる程度だったのが、今じゃすっかり互角以上だ!!」
「……楽しそうだな? 変態め」
「モリガナに命を狙われているのが堪らねぇんだよォッ!! あの眼差しで見られると興奮しちまうんだァ、あの手にしたナイフで刺し斬られるとゾクゾクしちまうゥッ!! ──なぁ、お前知らねえか。この不思議なまでの気持ちは、世間じゃなんて言うんだよう」
「知るか。良いからさっさと退くぞ」
すっかり高揚している火野ににべもなく言い放ち、イルベスタは苛性ソーダ・スコーピオンから距離を取った。
さながらペットとして従うかのようにして現れた形だが、実のところこれとて結局自身を囮にしてアレを誘き寄せただけ……命懸けの餌になってみせただけのことだ。
イルベスタ自身にとってもこの蠍、苛性ソーダ・スコーピオンは危険極まりないモンスターでしかなかった。
ゆえに火野を回収した今、全力で逃走するのだ。決着の地はここに非ず、すでにWSOとて掴んでいるだろうあの場所、北欧はノルウェーのノールノルゲだ。
一人、モリガナへの感情に戸惑いつつも身悶えしている薄気味の悪い変態の気持ちになど、関心すら持たない。すべては偉大なるオーヴァ・ビヨンドのために、イルベスタはやはりここは逃げの一手を打とうとしていた。
────しかしてそんな思惑も、相対する側からすれば断じて阻止したいものに決まっている。
だからこそソレが放たれるのは当然だった。火野が引き起こしたスタンピードの、モンスター達を粗方片付けた後に放たれし、特大の鎖。
ソフィア・チェーホワの裏の人格、ヴァールだ!
「《鎖法》、ギルティチェインッ!!」
「っチェーホワか、面妖なる鎖をっ!?」
「イルベスタ・カーヴァーン! 火野源一ごと逃げようなどと、このワタシが許すものか!!」
彼女だけが持つ世界に唯一のスキル《鎖法》。その奥義たる鎖でもって、二人を的確に狙うヴァールが高らかに叫んだ。
苛性ソーダ・スコーピオンなるモンスターも気にはなるが何よりもまず、好き放題に暴れた上で逃げようとする能力者解放戦線メンバー達を倒し切る!
鎖を放つ彼女の横合いから、同じくモンスターを片付けた妹尾とトマスもそれぞれ武器を手に駆け抜けてくる。これ以上の長居はいよいよ逃げ切れなくなる。
にわかに焦るイルベスタ……それをさらに後押しする、予想外の一撃もまた、彼の意識しないほうから放たれる。
「《念動力》ッ!! 火野源一、覚悟ッ!!」
「何ッ、モリガナ!? ────がぁぁっ!?」
「火野ッ!? 貴様、エリス・モリガナ!!」
あらぬ方向から飛んできた3本のナイフ。エリスが《念動力》の思念波で操るそれが、火野の脇腹に深く突き刺さっていたのだ。
さらに。彼女自身の手にしたナイフから放つエネルギーブレードが長く、薄く伸びて針状に──火野の肩口を刺し貫き、硬貨ほどの風穴を開けていた。




