日記
恥ずかしながら、日記と名をつけるとだいたい続かない。自分の悪い癖のひとつだ。毎年日記がつけられるような手帳は買うし、学生時代は課題の日記はちゃんとつけていたような気がする。日記、と名付けるときはちゃんとやろうと思ってつける。それなのに、続かない。
言い訳をさせてもらえるなら、自分の日常に絶望している、のだろうと思っている。学生をやめて、いまはろくに働けもしないのだが微妙に働いていて、正直いてもいなくても誰も気にも留めないような、どちらかといえばいない方がいいような、そんな生活をしている昨今の自分は、はっきり言ってなにも出来事なんぞありゃしない。今日も無意味に生きた。この一言に尽きてしまう。極端にネガティブになる、これも自分の悪い癖だと自認しているが、冗談抜きで何もない。感情を殺さないと仕事ができないのだからなにも感じようもない。友達に会う気力も、本を開く気力も、テレビを見ようと思う気持ちでさえ、いやそれははじめから全く無いのだけれど、仕事が終わると自分でも驚くほど何もできない。そんな生活を送りながら何を書けようか。
書こうとすれば見つからないことはない、ツイッターには毎日いるのだから、毎日なにかしら感じているのだろう。これを書いているのも、書く気力があるときにブツブツと書いているからで、全くほんとうに何もないなら、更に鬱が進んで、既に首でブランコしているところだろうと思う。
それでも日記として残せないのは、多分読み返す人が自分しかいないからだろうと推測する。ツイッターに毎日いられるのは、日記としては意味不明な短文だとか、好きなものに対する突然の叫びだとか、そういうものを発信しても流してもらえる寛容さが心地よいからで、そんなものをわざわざ日記に書いても、後の自分はそんなもの全く役に立たない。その日あった出来事などを書き残すにしても、あまりに私的なことは書くべきではないような気がしてくるし、まして仕事の愚痴なんか絶対に読み返して嫌な気持ちになるし大概自分が悪いのであって、さらに自己嫌悪に苛まれるのは火を見るより明らかで、そう考えると、もう『今日は暑かった、溶けるかと思った。ミミズが干乾びていた、ミミズに生まれなくてよかった。』くらいしか書けることがない。自分に日記は向かないのではないか?自分が嫌いなのに自分のこと書き記して自分で読み返してさらに自分を嫌いになるなんて狂人の所業、やめりゃいいじゃん、の一言に尽きる。もはや一種の自傷行為、ドクターストップがかかるレベル。
……書きながら、だんだん気持ちの整理をしていくタイプの人間なのだが、ちょっといま冷静になって、なぜそうとわかりながらこんな文章を書いているのか全く意味がわからなくなってきた。なんでこんなエッセイもどきを書こうと思ったんだろう。
まあこれは書きっぱなしで自分に読ませる私的な日記とは違って、自分の感覚を切り離して“作品”にしてしまおうという魂胆でやっていることなので、読者がいることを想定した自虐芸なのでこれを書いている自分は日記に向き合う自分より幾分健康な心をしている。
某アニメつながりで相互フォロー関係だった年上のフォロワーさんが『独特の感性だね』と、褒めてくれていた(少なくとも自分はプラスに受け取った)のが嬉しかったというのもあると思う。その時は確か『岡本綺堂の“西瓜”を小学生のとき読んでからずっと西瓜のことは生首だと思ってる』みたいな意味不明なことを呟いたときだと思うのだが、そんなことは日記に書くようなことでもないし、もちろん口に出すようなことではない。それこそ口に出そうものならドン引きされてお終いだ。けれども自分の中では普通のことだったから、面白がってもらえるなら表に出すのもいいかもしれないなと思ってこんなことを今でも気まぐれにだが続けているのだと思う。でもアレを読めばみんな西瓜を切るときに心の中で『生首真っ二つ』とか言ってちょっと笑うようになるはずだからわたしが変わり者だとは全く思わない。“西瓜”を小学生のときに読んだのは、怪談のネタを探していたときに偶然巡りあった子供向けアンソロジーに入っていたからで、当時から岡本綺堂を知っているような渋いお子様ではなかった。ただその出会いのおかげでいま“玉藻の前”を読んで身悶えしている。『自害なさいませ』って言われたい……。
話がめちゃくちゃ逸れた。はっきり言えるのは自分に私的な日記は向かないということだ。自分が嫌いなのだから、嫌いなものの行動記録をつけても全く生産的ではない。人生二十年目にしてやっと知った真実。
ただ、このエッセイもどきや、日記とつけた短編連載が継続的に見えないのはほんとに時間がないのと気力が続かないからだ。継続的に見えないだけで自分の中では続いている、原稿がないだけで進んでいるのだ……。無理しない程度に頑張りたいとは思っている。