眼鏡
眼鏡というのは、なんだか陰気に見えていけないと、ずっと思っていた。
小学生の高学年の頃には目が悪くなっていたわたしだが、二年ほど痩せ我慢を続け、中一の冬についに眼鏡をかけた。自分の顔が嫌いで、嫌いなものにさらにいいイメージを持たないものをプラスしても嫌いなものは嫌いだ。けれど既に眼鏡なしでは自転車で動き回るのが怖いくらいには近視が進んでいて、その頃は月が四角く見えていた。この際見た目はどうなろうと構わない、生活のしやすさが問題なのだ、とわりきってしまうと、顔の一部になるのは瞬きをするより早かった。
眼鏡の持つ、知性的な表情、とでもいうのだろうか。コイツが気にくわない。自分は頭が良くもないのに、頭が良さそうに見えるなどと意味のわからないことを言われる。あまり表情を表に出さず、不機嫌そうに見えると親族からも言われるような顔をした人間ならば、頭が固そうとも言われる。いやそれは自分の顔の問題なのだが、とにかく眼鏡をかけたくらいで頭良くなるわけがないのだから全人類はその偏見をすぐさま捨てるべきだ。
最近のファッションとしての眼鏡観は好感が持てる。野暮ったい、陰気な印象を一気にその対極の人が吹き飛ばしたのは素晴らしい革命だ。他人が眼鏡をかけているのは、その人の違った表情を見せてくれるのでむしろ好きなのだけれど、このファッション眼鏡が似合う人も限られるのではないかと思う。わたしが眼鏡をかけても通常通りであり、全くいい意味でのラフ感がでない。顔がいい人だけ眼鏡をファッションとしてたくさんたのしんでほしい。
それで、どんな格好をしても、どんなに髪を切っても全く垢抜けなかったわたしがコンタクトにしたら垢抜けたねと全く知らないおばさんに言われた。陰気な顔をしてるやつにとっては眼鏡など陰気助長アイテムでしかないのだと、とても思い知らされた。ありがとうね、知らないおばさん。
なんだかのっけからずっと眼鏡を否定しているように聞こえるが、眼鏡の利点もある。まず、学校の実験でさらにゴーグルをかけさせられなかった。これは大きい。誰が使ったとも知れない学校備品のゴーグルを、直にかけるなんて、絶対に嫌だった。安全面からすればかけたほうが良いことはわかりきっているけれど、どんなに陰気なクソ野郎でも思春期は思春期だ。そういう細かいことが気になっていた時期があったのだ。
次に着脱が簡単だということ。コンタクトをつけっぱなしで寝るとえらく目が痛い。目が痒いときもコンタクトでは目が擦れない。目を擦りすぎてコンタクトが取れなくなったことがある。そういうとき、メガネはめちゃくちゃ便利だ。
それから、手入れがしやすい。あんなのティッシュでもなんでも拭けば綺麗になる。なんて単純なやつだ。一時期、眼鏡を外すのすら面倒で、かけっぱなしで拭いていたことがあった。コンタクトは入れたまま洗えない。いや、眼鏡だって普通は外してから拭くのだけれど、その頃はすべてが大儀だったのだ。
眼鏡ユーザーからすれば至極当然なことを並べただけではあるが、今日はどうやら、といってももうあと十数分で今日は終わるが、眼鏡の日とかいうことで、眼鏡のことについて真剣に考えてみたらほぼほぼ文句だった。
それから、眼鏡ときいて思い出すのは、眼鏡が濡れるのが嫌で、雨の日は自転車のかごに、眼鏡をそのまま入れて登下校を繰り返していたので、レンズにがっつり傷がつき、眼鏡屋さんにめちゃくちゃ笑われて顔から火が出そうになったことがあった。
いつも使ってはいるけれど、同僚のような関係であって、全く打ち解けていない事務的な間柄ということが、今日はハッキリしてしまった。この先も仲良くなることはないだろう。