鶏皮
母がまるで育ち盛りの少年のように肉を食べたがるのでなるべく安く済ませようと、鶏皮をよく買う。いつもはそれを塩胡椒で炒めるだけの手抜き、いや、いたってシンプルな調理をする。
あのパック詰めの技法は誰が開発したのだろう、近所のスーパーでは三、四枚重ねて丸く形を整えたものが8つほど入って小さめのパックに詰められている。これしかない、と思わせながら、いざ炒めると、こんなにあったのか、と多少後悔する量だ。それを一枚一枚に分ける作業には瞑想と同じ効果があるような気がしてしまう。解凍肉なので買ってすぐに使おうとすると肉がめちゃくちゃ冷たい。指の痛さに耐えながらひたすら分解する単純な作業だ。
まずいつも、なぜこんなことをしているのかと自問自答してしまう。理由はもちろん明確なのだが、鶏の皮を一枚一枚分解するという作業の非日常感が強い。だんだん思考は絡まっていく、なぜこんな詰め方をするのか、こま肉みたいにすぐ使える詰め方にしてくれよ、包丁使わないだけいいけども、なんだってこんなところに謎のこだわりを発揮するのだと。そして毎回思う、今後の創作活動上、必要に迫られてカニバリスタキャラを動かす日が来たならば、皮を剥いでこのめんどくさいパック詰めをさせ、冷蔵庫にきっちりとしまわせ、満足げに微笑ませよう、と。食肉加工で処理をした直後に真空パックするのだから、カニバリスタも同じようにする必要があるだろう。冷蔵庫は綺麗にさせなければ気が済まない。鶏のキャラが鶏の皮を剥ぐのも面白いだろう、大手アニメではネズミが犬と猫を飼っている、なにも不思議ではない。
次に、皮を食べるという異常性に思考をめぐらせてしまう。人で考えてみるとなかなかにサイコパスな嗜好ではないか。皮を剥いで炒める。かなりヤバい。魚も鮭なんかは好んで皮を食べてしまう。あの水戸黄門も鮭の皮を好んだと聞く。異常だけど美味いからつい食べてしまう。こんなことを考えながらも焼き鳥にしたいとか煮込みたいとかいろいろ考えてしまう、美味いのがいけない。鶏の皮を食べようと思った先人を異常だと思いながらも感謝せざるを得ない、ありがとう、知らない人。
そして最後に炒める。油がとぶ。皮を炒めるとなぜあんなに油が出るのか、いや、理屈はちゃんとわかっている、わかっているけれども、料理をするときにそんな理屈はいらない。油がとぶと熱い、熱いのだ。コンロも汚れる。夏にはやりたくない、本当に。しかし悔しいことに美味いのだ。油がはねる料理はだいたい美味いのだ、仕方ない。生で食べられたらどんなに良かろうかとも思うが、それはそれで、皮を食べている感触がダイレクトにきてしまう。多少血もついている。わたしは耐性があるので大丈夫だが、抵抗がある人からすればただのゲテモノだ。食材と死は強く結びついているが、その痕跡を消すのが料理だといつか読んだ。バロットという料理は例外として挙げておく、検索してみるといいだろう。
ここまで書いておいて唯一怖いことは、あのパック詰めが全国的にマイノリティだと判明したら、ということだ。この感情が1ミリも伝わらず、ただわけのわからないことを喚き散らす変人だと思われてしまう。実際間違ってはいないけれど。どうなんだろう。