稚拙
次に俺が目を覚ましたのは、文化祭前日。前回、起きた時から約二週間の時間が経った頃のことだった。
思ったよりもずっと早く、俺から伊織への移行は進んでいく。最近は目覚める度に、何日時間が経っただとかそんなことを気にするようになったが、今日も、いつもより一層それの早さに驚かされるばかりだった。
ただ、理由を考えればそれも頷ける。
そもそも、この体は伊織の体。
論理的なのかはわからないが、この体に強く適応しているのは、俺の魂よりも伊織の魂のはず。だから、彼が目覚めた以上、より適応力の高い伊織が急速に体の主導権を奪っていくことは何もおかしい話ではない。
そして何より、伊織が彼の目の前の世界に一気に順応していっていることも鑑みると……俺の、残りの時間ですべきことももうない。つまり、起きる必要がないのだ。
考えれば考えるほど、今の状況はおかしな話ではない。
いつものように俺は、現状をそう結論付けて、半分諦めにも似たため息を吐いて、ベッドから体を起こすのだ。
机に置かれた交換日記。
いつ俺が目を覚ますのかわからない。その時、引き継ぎが上手くいかないと彼も困る。だから、相変わらず交換日記には伊織の文字がたくさん綴られていた。
伊織の用意した二冊目のノートは、一冊目と違って、彼の文字ばかりの多い日記となっていた。
一頁一頁、俺は日記を熟読した。
そうして、遅刻ギリギリの時間になり香織に怒られて、朝食も食べずに家を飛び出した。
二週間にも及ぶ長い眠りに付いていたからか、頭の中はまだ寝ぼけているような感覚だった。いいや、もしかしたら体から、俺の魂への拒絶反応が起き始めているのかもしれない。
「行ってきます」
考えがまとまらない頭で、俺は家を出た。
駅。
ホーム。
そこには当然、橘さんはいなかった。
そして俺は、最後に眠る前の決意を思い出した。
伊織と橘さんの間を取り持つ。
おぼろげな記憶が、蘇る。
そうだ。そうだった。
俺のせいで仲違いしている二人の仲を取り持つこと。
それが、俺が自らに課した、最期の役割。
俺が最期を迎えるために、やり残したこと。
電車に揺られながら、俺はぼんやりと考えていた。
どうすれば二人の仲を取り持つことは出来るのだろうか。
ただ、少し考えると難しいことではないと気付いた。
橘さんの人の良さは、俺は多分、彼女の家族以外でなら一番知っている。
そして、伊織の性格だって、彼との秘密の交換日記で深く知っているのだ。
彼らは多分、本来であれば仲の良い友人になれたことだろう。
ならば、どうして今彼らの現状がこじれてしまったのか。
……そこまで行き着いて、俺は自分の思考がループしたことに気がついた。
結局、諸悪の根源は俺なんだな。
乾いた笑みがこぼれた。
……もし。
もし、俺が邪魔することなく、伊織と橘さんが出会えていたら、彼らはどうなっていたんだろう。
俺が伊織の身に乗り移ってからの橘さんとの出会いは、満員電車の中だった。田舎育ちだった俺は、都内の満員電車に辟易としながら早く学校の最寄り駅に着けよと思って、そうして彼女が痴漢されている現場を目撃した。
伊織が、もしあの満員電車に乗っていたなら、どうしたのだろうか。
伊織は香織に似て、生真面目で優しくて、責任感のある男だった。
容易に想像出来る。
もし、伊織が俺と同じように橘さんの痴漢現場に遭遇したら、彼もきっと橘さんを助けていただろう。
そうすれば、二人は痴漢を助けてもらった側と痴漢を助けた側で知り合えて、今とは違う関係性を生むことが出来たはず。
その機会を、俺は奪ったことになるわけだ。
伊織が目覚めてから、ずっと彼に対する罪悪感が頭の中に渦巻いている。
不可抗力もあったとはいえ、俺は伊織の青春を奪い、そして今回のように伊織が誰かと出会うきっかけを潰したのだ。
そんなことを考えることは結果論であることはわかっている。
でも、罪悪感が脳裏にこびりついて離れないのだ。
こうして許されざる行いをしたと気付く度、俺は罪悪感で押しつぶされそうになるのだ。
……でも、罪悪感に押しつぶされても。後悔しても。悩んでも。
何も変わらないことを俺は知っている。
もし、目の前に直面した境地を変えたいと俺が思っているならば……俺は、行動を起こさないといけないんだ。
立ち向かわないといけないんだ。
でも俺は、わかっていた。
これは、俺が動いてもどうすることも出来ない話だってことに。
伊織と橘さんの関係を深めるのは、俺ではなく伊織と橘さん。俺が二人に仲良くなってほしいと願っても、彼らにその気がなくては話は頓挫するだけ。
……俺から二人に、仲良くやってくれよと頼み込むことは出来る。
でもそれは、俺が二人に望むような関係ではない。
じゃあ、俺は二人にどうなってほしいんだ。
……ああ、そうか。
俺はただ、二人に笑い合っていてほしいだけなんだ。
この身に乗り移る前。
この身に乗り移った後。
俺は、色々なことをしてきた。
怒ったこともあった。
笑ったこともあった。
悲しんだこともあった。
立ち直ったことも、あった。
俺がそれらをする時、他人に意思を操られたことがあっただろうか。いや、なかった。
自らの感情というものは、他人により操れる領分ではない。
自らが直面して、乗り越えて、挫けて、再起して……初めて感情は湧き上がってくる。
諦めずに立ち向かったからこそ、かけがえのないものに出会えるのだ。
俺が躍起になって伊織と橘さんの関係に介入することは……また、伊織から機会を奪うことに繋がるのではないだろうか。
でも、確信もある。
それは、わだかまりが溶けた二人はきっと……笑い合える仲になれる、ということだった。
学校に到着し、俺は教室に向かった。クラスメイトの挨拶に返事もせず、俺は一目散に橘さんの机へと向かった。
……少し、怖いと思った。
思わず足が竦むような場面、立ち向かおうとする俺の隣にはいつも、一人の少女がいてくれた。
ただ今日は、その少女は隣にいない。
その少女は今、俺を不安げに……見上げていた。
ただ、ようやくわかった気がした。
一人で向き合う覚悟を持って、二人の仲を取り持とうと決意して……俺のせいでこじれた関係を、どうすれば戻せるのかと画策して。
……ようやく、わかった気がしたんだ。
それは……。
もう、俺は目覚めることはないだろうってこと。
今日が、俺の最期になるだろうってことだった。
……伊織と橘さんが笑い合う未来。
そこに、俺はいない。
本来であれば部外者でしかない俺は、そこにはいないのだ。
二人の関係は、俺が決めることではない。
二人の関係は、二人が決めることなんだ。
伊織が目覚めて以降、疎外感を感じていた。
今、俺が見ている世界は伊織の世界。俺の世界ではなく、伊織の世界。
なのに俺は、伊織が目覚めるまでの一年近く、この身で伊織に成り代わり生活し……伊織の時間を奪ってきた。
罪悪感もあるし、何よりだからこそ、彼が目覚めて以降疎外感を感じたのだ。
彼が目覚めるまでの代替わり。
それが、この身で生きた俺の役割。いいや、罰。
彼が目覚めた以上、俺に残された役割は彼に何があったかを伝えること。そして、彼が無事に社会復帰出来るようにするだけ。
ただそれは、俺なんかいなくてもあっさり終わってしまった。
俺は、自分が生きる意味を考えて、捻り出したのがこれだった。
……稚拙な、言い訳のような理由だったのだ。
二人の関係は、二人が決めること。
本来、そこに俺の意思は含まれない。
なのに俺は、そこに自分の生きる意味を求めた。
立ち向かう勇気と称し、時間稼ぎを目論んだだけなんだ。
本当は、わかっていた。
……もう。
俺がこの身でするべきことは、残されていないのだ。
俺が生きる意味は、何も残されていないのだ。
「……明日、文化祭。一緒に回らない?」
橘さんに言われた。
「……俺と?」
「……あんたと」
あんた、と。
その言葉の真意は……。
「明日、遅刻なんかしないでよ」
……ああ。
俺はいずれ消える存在。
だから俺は、橘さんに伊織と俺を判別するようなことをしないように口添えした。
でも、多分……。
逆の立場でも、俺でも多分、わかっていた。
一目瞭然、だったのだろう。
「……無理かもしれない」
「……なら、待ってるから」
それが今日、橘さんと話した最後の会話だった。
最後まで頭の中グチャグチャだった。