役割
交換日記にペンを走らせながら、日記にはぼんやりと頭の中で別のことを考えていた。文化祭の準備が始まって二週間が過ぎた頃、あれから四度目の起床をした日の夜の出来事だった。
僅か二週間。それより前も感じていたことだが、伊織はもうすっかりあのクラスの一員として、クラスメイトに受け入れられていた。
学校生活だけではない。
私生活でもまた、香織からも不満の声を聞かないあたり、何も問題ない日々を送れているのだろう。
交換日記を始めて、おおよそ一ヶ月。
伊織とは、この日記を通じてしかコミュニケーションを取る機会、術はない。だけど、なんとなく彼の人となりは、この日記を読んでいるだけで伝わってきた。
『お疲れ様です。今日の進捗は順調です。明日には、橘さんと一緒に食材の調達に向かうことになると思います』
要領の良いところ。
『交換日記の頁も少なくなってきたので、次の日記帳を買っておきました。一番上の引き出しに入っているので、頁が失くなったら活用してください』
真面目な性格。
『数学、微積がまだ理解しきれていません。明後日、先生にアポイントを取り付けたのですが、もしその日あなたが起きたら、面倒だと思うんですが、話は聞いてもらえませんか?』
そして、勤勉さ。
俺は、かつてを思い出していた。
かつて……高校時代、俺の恋人だった人のことを、思い出していた。
香織と伊織は、血が繋がっているだけあって、その勤勉さ、生真面目さ、そして誠実さ。まるで瓜二つのように、二人はそっくりだった。
「……親子だな」
交換日記を読みながら、俺は苦笑した。
今更、俺は自分が香織の息子に乗り移った事実を受け入れたのかもしれない。嫌な気分ではなかった。むしろ、向こうさんにかけた多大な迷惑を考えると、頭が上がらない気分だった。
そろそろ睡魔が襲ってきそうだ。
最近では、抗うことが出来ない強烈な睡魔に襲われることが多々ある。それが、俺が眠りに付き、この体の所有権を元の主である伊織に返す合図であることに、最近ようやく俺は気づき始めていた。
あまり時間はない。
俺は、日記にペンを走らせた。
今日俺がした出来事。
それを事細かく、彼に伝える必要があった。
と言っても今日は、橘さんと一緒に文化祭の食材の買い出しに行った以外、特筆するべき話題は特になかった。
そして、橘さんとの買い出しも、業務連絡のような内容を書くばかりで……橘さんと何があったのか。それを書くには至らなかった。だって、何もなかったのだから。
人が変わってしまったように見えた。
無関心。無口。無表情。
仲良くなって以降の橘さんからは見たことがないくらい、今日の橘さんからは生気を感じなかった。いや、今日だけじゃない。
あの日から。
……あの日から、橘さんは変わってしまった。
間違いだったのだろうか。
彼女に、伊織のフォローを頼むのは。
でも、他にどうすることも出来なかった。
俺にはもう時間がない。
そして、俺に関する事情を知る人は、伊織を除けば橘さん以外、誰もいない。
……そんなの、他にどうすることも出来ないじゃないか。
本当は、わかっていた。
多分、不要だったんだろう。
橘さんに頼まずとも。
俺のフォローなんてなくても。
伊織は、上手く生きていけた。
彼に似た香織は、そのとっつきやすい性格と真面目さと誠実さから、学生時代は皆の人気者だった。皆に頼られ、生徒会長にまで就任していた。
彼女の血を引き、ここまで彼女を彷彿とさせる立ち振舞いで周囲の人気者にのし上がった彼に……俺や、橘さんのフォローは必要なかったんだ。
余計な気を回してした俺の行いは、将来的に橘さんと伊織を疎遠にさせる、文字通りの悪手だったんだろう。
「俺はいつも、そんなことばっかりだな」
自罰的になったわけではない。悔やんでも先に進めないことを、俺は知っているから。
ただ、苦笑は止まらなかった。
……笑っていても、始まらない。
悔やんでいても、進めない。
困った時、状況を打開したい時、何をするべきか。
俺はそれを、この一年間で深く、よく、知ったつもりだ。
こんな状況を打開したいのなら……今、俺がするべきことは。
「わかってる」
ただ、不安もある。
今更俺が茶々を入れて、余計にこじれたりしないだろうか。
これまで失敗続きだった自分が、次成功出来る保証はどこにもない。
怖い。
……この体になって以降、思わず足が竦みそうな時、いつも隣にいてくれた人がいた。
その人は今、俺の隣にはいない。
もう、この先も……彼女は俺の隣にいることはない。
でも、人の別れとはそういうものではないか。
伊織や香織と、香織の旦那が唐突に別れを告げられた時のように。
人の別れとは、無慈悲に、唐突に、凄惨に……訪れるものではないか。
それなのにいつまでも彼女を頼り続けることなんて、しちゃいけない。
いつ、別れが来ても良いように……。
一人で立ち向かう勇気が、俺には必要なのではないだろうか。
伊織のフォローは、結局役立たずに終わった。
でも、一年以上隣を歩いてもらった彼女に嫌な想いをさせたまま別れるだなんて、そんなことあっちゃいけない。
彼女とこんな悲劇的な別れを迎えるわけにはいかないんだ。
それには、伊織と橘さんの仲を俺が取り持たないといけないんだ。
「……最期にドジを踏んでしまった」
僅かに思った。
……伊織と橘さんの仲を取り持ち終えた時、俺は最期を迎えるのではないだろうか、と。
確信はない。
そうじゃない可能性もある。
でも……神は、俺に俺の人生が捨てたもんじゃなかったと伝えるためにこの時間を与えた。
だったら、俺が独り立ち出来た時……。
一人で、困難に立ち向かい、成し遂げた時。
俺にも、一人で成せる勇気があったんだと理解した時。
これまでの人生で一番、自らの死を悔やんだ時……。
真の意味で俺は……終わるのではないだろうか。
そんな気がした。