変化
伊織が目覚めてからしばらくの時間が経過した。最初は再び目覚めるのに一週間ほどの時間を要した伊織だったが、数週間の間に目覚めるペースも上がってきていた。
一週間から五日へ。
五日から三日へ。
ゆっくりと確実に、彼は快復傾向に向かっていた。
今日、俺は三日ぶりに目を覚ました。いつもなら二日間隔で目を覚ましていたのに、今回は三日。
どうやら思っていたよりもずっと、残された時間は短いようだ。
伊織が目を覚ましてから、彼に体の主導権を握られる日が日増しに増えていて、何度そんな驚きを覚えたか、もう数えてはいない。
近づく終わり。
贖罪したい相手の順調な快復ぶり。
嬉しいような、少し残念なような。複雑な胸中が頭の中で渦巻いていることに気付いて、俺は中々ベッドから体を起こすことが出来ずにいた。
ようやくベッドから出て、向かった先は勉強机。ど真ん中に置かれたノートを開いた。
『おはようございます。今日も、また俺が目覚めてしまいました』
最新の頁の書き出しは、こんな感じだ。伊織がこのノートへ文字を綴る時は、決まって何故か、俺に申し訳なさそうにしていた。
本来、この体の主は伊織。俺は居候みたいなもので、そんな俺相手に恐縮する必要なんて一切ないのに、律儀な男だといつも思っていた。
最後に俺が交換日記を書いた時は、確か学校生活に慣れたかを尋ねていた。伊織の日記には、それに対する返事が記載されていた。
『おかげさまで。クラスメイトも皆優しく、とても楽しい学校生活を送れています。多分、一年近く寝たきりで二年から学校に行っていたらこんなに順調に馴染めることは出来なかったと思います。というか、そもそも退学になっていたかも。とにかく、あなたのおかげで、今俺は学校生活を楽しめています』
伊織の日記に微笑みながら、こんなことなら橘さん以外のクラスメイトとも友好的に接しておくんだったと少し後悔した。
まあ、友好的に接する気がなかったわけではない。ただ、反りが合わなかったというだけだ。
『本当に、あなたのおかげで学校生活はとても楽しく送れています。ただ一つ問題があるのは、学力テスト、頑張りすぎです(汗)。一年のブランクがあるのに、勉強に付いていけるか不安でたまらないです』
言われて、確かに、と俺は思った。
橘さんの尽力もあって、一年時の俺の学力テストは中々のものだった。今からそれに追いつくのは、大変かもしれない。
……彼は申し訳無さそうにするかもしれないが、この交換日記で勉強も見てあげるのがいいだろう。
『でも、勉強ひっくるめても今はとても楽しいです。本当に、ありがとうございます』
お礼が綴られた次の頁。翌日の頁にも、伊織の文字が書かれていた。二日続けて彼が目を覚ましていたのだから、当然のことか。
翌日の日記は、取り留めのない内容が書かれていた。
ただ、一つ目を引いたのは……、
『やっぱり俺、橘さんに嫌われているかもしれないです』
伊織の、切実そうな悩みだった。
俺は少し不思議に思った。
あの橘さんに限って、他人に敵視をむき出しにする姿は……まあ、容易に想像出来るのだが、とにかく彼女は、少しキツイ部分もあるが、トータルで見ればとても優しい人だ。
そんな彼女がほぼ初対面の伊織に厳しく接するというのは、どうも想像出来ないのだ。
姉御肌の一面もあるから、むしろ積極的に伊織を引っ張りそうなものなのだが……。
そんなことを考えていると、家を出る時間が迫っていることに俺は気付いた。俺は荷物をまとめて、慌てて家を飛び出した。
今日もまた、電車で橘さんとは会えなかった。
電車に乗る時間が、最近すっかり遅くなっていることも要因の一つ。でも、そう言えばこの前は、わざわざ電車を途中下車してまで、橘さんは俺を待っていてくれたりもした。
であれば、今俺が橘さんと一緒に登校出来なくなったのは……彼女が俺と登校する気がないから、というのも大きな要因の一つとなるのだろう。
伊織同様、もしかして俺も嫌われたりしているのだろうか?
俺は思った。
嫌われたのかもしれない、と。
最近の俺は橘さんに、酷い仕打ちをたくさんしている。それを仕出かした自覚もある。
でも、だったら他にどうすればよかったというのだろうか。
これは、ただの俺の開き直り、か。
多分橘さんは、俺が謝る方が不快な気分になるだろう。
彼女は、義理堅い人だから。友達ならそれくらいして当然でしょ、と謝った俺に怒ることだろう。
……じゃあ、俺は一体、橘さんに何をしてあげればいいのだろうか。
考えがまとまらないまま、俺は学校。そして教室にたどり着いた。
俺は、喧騒とする教室へとつながる扉を開けた。
「おはよう、伊織」
俺は面食らった。
クラスメイトにされたのは、ただの朝の挨拶。でも、名前もロクに知らない彼と、こうして朝の挨拶を交わしたのは初めてだった。
「おっ、遅いじゃんか。伊織」
「伊織くん、おはよう」
面食らいながら、挨拶を返しながら、俺は居た堪れない気持ちで自席へと向かった。
浦島太郎にでもなった気分だった。これまで友好的ではなかったクラスメイトが、突然友好的になった今の光景は、竜宮城に赴いて陸に帰って来たら数十年の歳月が流れていた絵本の光景とどこか重なったのだ。
……俺は気付いた。
クラスメイトはきっと、伊織と接して態度を翻したのだろう、と。
体の主導権も。
目の前に広がる光景も。
やはり、ここは俺の世界ではなく、伊織の世界。
そう明確化されたような目の前の景色に、俺は激しい疎外感を覚えた。