詮索
しばらく伊織宛のノートへの記帳を続けて、俺は学校に向かうため家を出た。後何回こうして、伊織の身で学校へ迎えるのか。制服を着れるのか。この身に乗り移った当初に、香織に制服を渡された時、俺は二度目の高校生活を送ることに前向きになれなかった。でも、香織を悲しませたくないという気持ちで学校に通い、今では僅かに終わりが訪れることを侘びしく思っていた。
そんなことを思う資格はない。
そうわかっているが、そういう気分になってしまったのだから、仕方がなかった。
通学路を歩き、駅に入り、電車に乗り込んだ。
橘さんは……電車の中にはいなかった。最近、俺が学校に向かう時間が不規則になっている。こうして橘さんと一緒に登校出来ない日も、少なくなくなっていた。
教室。
橘さんは、自席で本を読んでいた。
「おはよう」
俺は声をかけた。
「ん」
いつも通り、簡素な返事だった。
その返事に苦笑して、俺は自席に歩いた。教室にはまだ、俺と橘さん以外誰もいなかった。
教室の外では、サッカー部。校内では吹奏楽部が、朝から活気ある練習に励んでいた。その声や音色を聞きながら、俺は窓から外の景色を眺めていた。
がたっと椅子を引く音が遠くから聞こえたのは、しばらく経った頃。
「あんたなの?」
俺に声をかけてきたのは、橘さん。
あまりに要領を得ない質問に、俺は首を傾げるしかなかった。
しかし、俺がまともな回答をしていないにも関わらず、橘さんは納得げに俺の隣の席に腰を落とした。
「……昨日、あんた学校に来なかったでしょ」
「うん。そうだね」
「……じゃあ昨日来たのは、やっぱりそういうこと」
橘さんは、少し寂しそうに俯いていた。
「……そう言えば伊織、君が睨んできて怖いってノートに書いてた。なるだけ優しくしてあげてくれよ。これから君達は、クラスメイトになるんだからさ」
「先生みたいなこと言わないで」
橘さんのツッコミに、俺は苦笑した。
確かに今の俺の発言は、これまでずっとクラスメイトだった彼女に言うには、おかしい発言だった。
でも、本来であれば今の俺の発言は何もおかしいものではない。俺は三十五歳。橘さんと伊織は、十五……いや、十六歳。二十歳年の離れた二人に、俺が教員のように大人の発言をすることは、正しいはずなんだ。
これまでが、おかしかっただけなんだ。
……ゆっくりと、この異質な空気も正常に戻っていくだろう。
それは予感ではなく、確信だった。
「橘さん。またお願いしてもいい?」
……これからこの身で生きる伊織のため、俺はまだしなければいけないことがあるはずだ。
そう思って俺は、橘さんに要望を出す決心を固めた。
橘さんの顔は晴れない。
「これからは、伊織も学校に来るようになる。だから……今後は、学校に来たのが俺か伊織か、詮索はしないでほしいんだ」
もうまもなく、俺は消えていなくなる。
何故なら俺が伊織の身に宿ったのは、神のきまぐれで起きたおかしな出来事だったから。
だから、物事は正常の方向へと舵切りが進んでいっている。
もうまもなく俺は消える。
そして、もうまもなくこの体には、伊織しか残らなくなる。
そうなった時……異常な要素を残しておくわけにはいかない。
この身で生きるのは、伊織だけ。
そうしていかないと、いけないんだ。
……言い終えてから俺は、これまで俺がこの身で成してきたこと全てが無意味に終わったような気がして、少し寂しさを覚えた。
でも、後悔は不思議となかった。
そんなことない。
そんなこと、あるはずがない。
俺のことを知ってくれた少女が目の前にいる。それだけで、この身で成した全ては意味があった。そう思い直すことが出来たのだ。
「……あなたは、それでいいの?」
「ああ、構わない」
だから、橘さんの問いにも即答出来た。
……橘さんは、わかった、とは言わなかった。
「……あいつに優しく出来るか。それは保証出来ない」
「出来るさ。だって君は、とても優しい人じゃないか」
「……そんなことない。それはあんたが、一番良く知っているでしょ」
「誰かのために、自分が深い傷を負ってまで、何かを隠し通そうとする。そんなの、普通出来ないよ。普通の人なら途中で、心が折れて白状する」
それは、いつか……彼女に怪我を負わせた時の記憶。
「でも君は成し遂げた。不運が重なってバレてしまったけど、君は最後まで意思を貫き通した。相手のためを想って」
「……誰にでも、そこまでしようと思うわけじゃない」
橘さんはこれ以上俺と話したくなくなったのか、席を立った。
彼女の言葉を、読み解こうとは思わなかった。彼女の言葉を読み解くような時間が自分にはない。彼女の言葉に応える時間が自分にはない。
彼女に、俺は向き合う勇気を教わった。
今の俺の選択は、その教示に反することかもしれないと思った。
でも、今はその選択が間違いだとは、一切思わなかった。
隣にいてくれていた彼女に……俺はこれまで、たくさんの苦痛を味わわせてきた。その選択は、隣にいてくれた彼女を不幸に陥らせる悪手。落ち始めて終わりが見えた砂時計を前に、俺はそう確信出来た。
「よろしく頼むよ」
背を向けた橘さんに、俺は言った。
残された時間の中で俺が出来る選択は結局、これしか残されていないのだ。
これまでの章で一番頭の中グチャグチャで書いている。変に期間が空いたのと、終着点が決めきれていないのが原因である。