軌跡
学校、アルバイトを終えて、俺は自室に篭っていた。
今日一日を、ゆっくりと俺は思い出していた。と言っても、この身に乗り移ってから約一年。すっかり日常になりつつある日々から大きな変化があったわけではない。
強いて言えば、伊織が昨日目覚めたことを、橘さんに相談したことくらい。
あの時、橘さんに現状を相談することを躊躇わなかったのは内心意外だった。今までの俺ならば、特に、この身に乗り移ってからの俺ならば……あんなに簡単に、秘密を他人に打ち明けることはなかったはずだ。
一番の秘密のこの身のことについて橘さんが知っているから、ということもそれを彼女に打ち明けた大きな理由。
でも一番の理由はきっと。
「この感情は、きっともう、一生秘密にするしかないだろう」
本来であればこの感情は、彼女に向けて俺が抱くはずのない感情だった。
神のイタズラで、伊織の身に乗り移って……抱いてしまった相応しくない感情だった。
……橘さんは、俺から伊織のことを相談された時、わかったと少し寂しそうに微笑んだ。その微笑みが、脳裏にこびりついて離れない。
ただ、彼女の了承がこれからしばらくは孤独になるだろう伊織の支えになることは明白だったから、少しだけ俺は救われた気がした。
俺がこの身に乗り移る理由はもうなくなった。
これからはきっと、俺の意識は少しずつ薄れて、最終的に本来の体の主である伊織が、再びこの身で生活をしていくことになるだろう。
あの時終わったと思った俺の生命は、神のふとしたイタズラで、こうして今まで生き永らえていくことが出来た。
ただ、それももうこれで終わる。
内心に宿る深い後悔。そして、少しの寂しさ。
伊織の身として生活し、俺は色んな人と出会ってきた。そうして、色んなことを教えてもらってきた。
それなのに道半ばでそれが絶たれてしまうことを、辛いと思わないはずがないじゃないか。
でも、きっとそれは俺にとっては高望みの願いなのだろう。
本来であれば俺は、あの時……。
あの時、俺の人生は終わっていたはずなんだ。
残された俺の人生。
俺がするべきことは……。
俺は、椅子から重い腰を上げた。
学校のカバンから買ったばかりのノートと筆箱を取り出した。
真っ白の紙の一番最初のページに、ボールペンを走らせた。
残された俺の人生で、俺がするべきこと。
それは、一年もの間眠っていた伊織が無事に元通り生活出来るよう、伝えていくこと。
彼の身に何があったのか。
彼の家族に何があったのか。
……彼の眠っている間に、俺が何をしたのか。
彼に、知ってほしかった。
ただ、こうしてノートに向かうと……何から書き出していいか、俺は少し困った。
バス事故のことも。
橘さんのことも。
学校生活のことも。
彼に、いきなり話し出すには簡単に説明出来そうなことではない。
いきなり謝罪の言葉を連ねることも。
いきなりお礼の言葉を綴ることも。
彼からしたら、反応に困るに違いない。
でも、このノートに興味を示してもらわないといけない。
そして、俺に対して関心も示してもららないといけない。
そうしないと、最初は見てもらえてもいつか……このノートは見てもらえなくなる。
その時が、多分俺の死ぬ時なんだと直感的に悟った。
それを遠ざけたいと思ったのは、生存本能か。はたまた……。
ただ、俺は気付いた。
あるじゃないか、と気付いたのだ。
興味関心を引き、かつ彼にとって俺が誰なのか、わかりやすく知ってもらえる書き出しが、あるではないか。
……こんな書き出し、気味悪がられるかな。
書いてから、俺は後悔した。
でも、かつて二十年引きずった感情を笑い話に出来るようになったんだ、と気付いて、俺は小さく微笑んだ。
ノートの一行目、俺はこう書いた。
『はじめまして。元カノの一人息子に乗り移った者です』