贖罪
いつもより少し遅い時間に家を出た。向かう先は学校。俺の、ではなく、伊織の学び舎だった。
鞄を持って、靴を履いて。
ドアノブを掴んで、扉を開けて。
この体でもすっかりお馴染みになった所作を行っている内に、俺はまだ自分が生かされている事実を実感した。
まだ、俺は生きている。
その事実は嬉しいようで、少しだけ申し訳なくも感じた。
駅に辿り着き、改札を過ぎて、俺はホームへの階段を昇った。
思えば、この身に乗り移り約一年。この階段を昇った回数も即答は出来なくなった。
でも、まもなくこの景色も見納めになる。
自宅から駅までの道を、忘れないように、噛み締めるように……俺は階段を昇って、ふと気付いた。
人は一体死んだらどうなるのだろうか、と。
答えは出ない。
容易に答えを出せるほど、簡単な問題ではなかったから。それも一つの理由。
一番の理由は……見慣れた景色に佇む、見慣れぬ人の姿を見つけたからだった。
「橘さん」
駅のホームの隅にある青色のベンチ。
短いスカートから健康的な太腿を覗かせながら、橘さんは文庫本を読んでいた。
俺に気付くと、橘さんは本を閉じて立ち上がった。
「遅い」
開口一番、橘さんは苦言を呈した。
「ごめん」
こうやって橘さんに謝った回数も、もう数え切れない。
「……先に行ってても、良かったのに」
「別に。早く行く用事もなかっただけ」
「電車、混んじゃうよ?」
「あんたが守ってくれるでしょ」
深い意味はなかったのかもしれない。
ただ、痴漢の魔の手から俺が橘さんを守ってくれる、とそれだけ伝えたかったのかもしれない。
思い出す言葉があった。
それは今日まで、俺が立ち直れないんじゃないかと思う度、俺を立ち上がらせてくれた言葉。
「……もう、隣には居られないかもしれない」
「え?」
「……どうやら、伊織が目を覚ましたみたいだ」
驚愕。
動揺。
悲壮。
そんな顔をさせたかったわけではない。
でもすぐに、そうさせたくなかった者の発言を、俺がしていないことに気が付いた。
突然目の前に迫った友人との別れ。
そんなことを知らしめられて、橘さんと同じような反応をしない人はいない。
わかっていた。
橘さんがそうなることは、わかっていた……。
それでも、俺が橘さんにそれを告げた意味。
「いつまで俺がこの身で過ごせるかはわからない。いつか、伊織がひょっこり学校に来る日があるかもしれない」
俺は、俺の仕出かしたことを後悔していたのだろう。
バス事故のこととはまた別のことだ。あれは俺の責任ではない、と色んな人のおかげで、俺はそれを知ることが出来た。
俺の後悔。
それは、十五歳という人生の一番楽しいひと時を、伊織から奪ってしまったことだった。
俺の人生の絶頂期は、香織と歩めた十五歳の時だった。
多分、きっと……だから俺は余計に、強い後悔を覚えてしまった。
そんな伊織に対して俺は……贖罪をしたかったのかもしれない。
「その時は、フォローしてあげてくれよ。橘さん」
俺は優しく、引き攣った顔をする橘さんに微笑みかけた。