表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
90/109

二十年

「……最低な考え方ですね」


 社長に吐き捨てるように言ったのは橘さんだった。


「あなたの今の考え方、結局それって自分の身が可愛いだけじゃないですか。世間的にはあの事故はもう風化しつつある。だからあなたは、カサブタになった古傷を広げたくないだけじゃない。それを、かつての部下を……かつての戦友も嫌だろうから、と主語を大きくして正当化しようとしているだけじゃない」


 橘さんの言うことは、あまりに正しい。

 

 でも俺は、社長の受けた痛みもわかるから……強い言葉を使うことは出来なかった。

 一部長クラスの俺でさえ、私怨を買ったせいで誹謗中傷を受け、果てには生命を捨ててしまった。

 社長の受けた世間的バッシングは、恐らく俺の比ではなかっただろう。


 そんな古傷を広げたくない。

 そう思う気持ちは、痛いほどわかってしまうのだ。


 でも、俺は違和感を覚えた。

 事故が起こってからの社長の行動。

 香織への対応。


 そして、俺達への言いぶり。


「社長」


 一つのことに気付いた俺は、もう骨になった時の身の名残で、目の前にいる老人を呼んだ。


 ここまで、夢遊病患者のように無表情を貼り付けていた社長が、ピクリと眉を動かした。


 呼びつけてから、俺は今、自分が何を言いたいかの整理を始めた。

 だから、口は動かすが声は出なかった。パクパクと口を動かして……ようやく俺は、声を発した。


「本当は、もう気付いているんでしょう?」


 優しい声色の俺の問いかけは……。


「橘さんの言う通り、自分が、ただ逃げているだけだってことに」


 社長は、懇願するような目で俺を見つめた。

 社長の目は、語っていた。


 言わないでくれ、と。


 そして……。


 言ってくれ、と。


 助けてくれ、と言っていた。


 社長の言ったかつての戦友。

 生命を断った息子同然の男。


 その男は……紛れもない俺だ。


 あの日、精神を病み電車に轢かれ死んだ俺だ。


 橘さんは、多分今の社長の気持ちはわからない。

 でも、俺なら社長の気持ちを汲むことが出来る。


 だって俺達は……。


 戦友であり、親子のような関係であり……そして、ずっと隣を歩み行きてきたのだから。


 社長は俺に……臆病者だった俺に、仕事を通じて向き合う強さを最初に教えてくれた人なのだから。


「母さんと会うのは拒んだのに、俺達と会うことは受け入れた。……心変わりがあったんでしょう?」


 香織を会うのを拒んだのに、俺達と会うことは受け入れた。

 初めからそのことに違和感を覚えていた。

 社長は俺達に、そのことを教えようとはしなかった。


 ……それは、矛盾を抱き始めた心を、俺達に探られたくなかったからだ。


「向き合う決心が付いたんでしょう?」


 社長は今、ようやくあのバス事故と向き合う決心が付いたのだ。


「……あの時のことは、未だに夢を見る」


 意気消沈した社長は、脳裏に焼き付いているだろう昔話を始めた。


「何の連絡もなかったんだ。凄惨なバス事故が遭って、そこが会社の取引先だと言うことまでは当然わかっていた。ウチが収めている部品もある車種だ、とそれくらいの認識だったんだ。そうした中、突然私は……いや、私達は日常を奪われた」


 橘さんは何も言わなかった。


「私はあの時、必死だった。社名を出された瞬間、請け負っていた仕事は相次ぎ受注中止となった。だから私は、食いつながなきゃと必死だった。顧客を一件一件回って、土下座もして、継続発注を懇願して……っ。そして、社内の情勢に目を向けることが出来なかった」


 俺も、何も言わなかった。


「結果が、あの様だ。私がもっとうまく立ち回っていれば、きっとあの会社はまだ存続出来た。私がもっと社内に目を向けていれば……部下達は離れることなく、彼も……死なずに済んだ」


「……少なくとも、彼が死んだのは社長のせいじゃない」


「君に何がわかる」


 わかるさ。

 ……あの時の俺は、社長に対しての恨みなんて、一切なかったのだから。


 でも、それは言えない。

 今俺の目の前に広がる世界は伊織の世界。

 もう死んだ俺の代弁をすることは……きっと火に油を注ぐ。


「……社長。もし本当に彼のことを思うなら、今あなたが一番にすることはやはり向き合うことなんじゃないんですか?」


 社長は、何も言わなかった。


「今生きている部下の皆には、今更社長が声を上げることは嫌かもしれない。でも、無念のまま死んでしまった彼は……彼はっ、一体どうやって救われれば良いって言うんですか」


 感情が、昂った。


「……あなたしかいないんですよ。彼の無念を晴らせるのは」


「……私しか」


「そうです。……あなただけです」


 ……そう言える根拠が、俺にはある。


「彼の隣には、あなたがいたんですから……」


 社長はまもなく、涙を流した。力なくすすり泣く老人を見ながら俺は、涙を堪えるのに必死だった。


 俺の無念を晴らしてほしい。

 そんなの建前でしかない。


 こうして、向き合うことを恐れて成り行きで生きる辛さを俺は知っているから。


 今までの人生での一番の恩師に、そんな辛く悲壮的な人生を生きてほしくなかったから。


 いつかの誰かのように、大切な人のために向き合う決意を固めてくれたことが、ただ嬉しかった。


「……彼女は、君のガールフレンドかい?」


 帰り際、ヨボヨボだった老人は、少しだけ若返った声で俺にそう尋ねた。

 橘さんとは、妹という設定でここに乗り込んだ。


 でも思えば、途中で感情のあまり、彼女の名字を呼んでしまった記憶がある。


「……ガールフレンドではないです」


「そうかい。……彼も、そんな感じで色恋沙汰には奥手になってたよ」


 彼が誰を指すのか。

 言わずとも、わかってしまった。


「……そうですか」


「色々お節介も焼いた。でも最後に私は、自分の身可愛さで彼を見捨てた。……戦友、だとか、息子同然、だとか、よく言えたもんだよ」


「……悔やんでも、醜い感情を抱いても、先には進むことは出来ないですよ」


「達観しているね。悩み事でもあったのかい? ……いや、すまない。事故のことを思い出させたかったわけじゃないだ」


「いえ、事故のことで悩んだわけじゃないです」


「……なら、何を?」


「……恋、ですね」


 社長は、少しだけ楽しそうに笑った。

 かつての社長を想起させる少し豪快な笑いだった。


「どれくらいだい?」


「……そうですね」


 そんな社長に引きずられ、俺も思わずかつてのように笑っていた。

 あの時のように、社長と二人で、笑っていた……。




「二十年です」




 社長は、優しく微笑んだ。

 冗談だと思っただろうか。

 いや、多分そう思っただろう。


 社長は、斎藤伊織のことを知っていると言っていた。恐らく事故被害者の名前と年齢は、一通り知っているだろう。

 伊織が二十年も恋を引きずるほど、年を取っていないことはわかっていたはずなんだ。


 本当は、言うべきではなかったのかもしれない。

 本当は、このまま別れるべきだったのかもしれない。


 でも、今の俺にはもう、そうすることは出来なかった。


「……多分、あのバス事故の件はこれで解決するよ」


 帰りのバスの中、俺は橘さんに言った。


「凄い自信ね」


「……あの人は凄い人だからね、保証する」


「……今度は、何に気付いたの?」


 橘さんは、俺の顔を見ながら尋ねた。

 どうしてわかったのか。

 目で訴えると、夕日に染まり赤くなった橘さんの顔が、儚げに微笑んだ。


「あなたの隣にいたから」


「……凄いね」


 俺は、橘さんから目を離して車窓の景色を眺めていた。

 いつか見た時と同じように、バスの通る道は……かつてここで生まれ育った俺の、よく知る道だった。


「昔、ここで香織と一緒にデートしたりさ」


 通学路。


「昔、十五連勤明けに社長と飲み歩いたりさ」


 通勤路。


「……君と、一緒に俺の身の調査をしたりさ」


 夜遅くに橘さんと歩いた道。


「ここには、俺の思い出がたくさん詰まってる」

 橘さんは、何も言わなかった。


「……俺は、俺のことが嫌いだった」


 少し、声が震えた。


「楽観的でマイペースで、成り行きに身を任せて後になって後悔して。馬鹿だなと思いながら、また繰り返して。進歩のない自分が大嫌いだった……」


 涙が頬を伝った。


「でも俺には、たくさんの人が傍にいてくれた。大切な人達と育んだ思い出が、俺にはこんなにたくさんあるんだ」


 香織。

 社長。

 高山さん。

 菅生先生。


 ……そして。


「君が隣にいてくれたから、俺はようやくそんなことに気付けたんだ……っ」


 涙が伝い震える声をした今の俺の顔を、橘さんはどう見ているだろうか。


 おかしいと思っただろうか。

 滑稽だと思っただろうか。


 ……向き合った隣にいる橘さんの顔には。


 俺は、苦笑した。


「ようやくわかった」


「……何が?」


「俺が、どうして伊織に乗り移ったのか」


 いつか思った。

 今俺が見ている世界は俺の世界ではなく……どこまで行っても伊織の世界。


 俺は所詮俺で、伊織にはどう転んでもなることは出来ない。


 だったら俺は、どうして今、伊織の身に乗り移った?

 

 神は……どうして俺を、伊織に乗り移らせた?




「神は俺に、俺の人生が素晴らしいものだったって気付かせるために、俺を伊織に乗り移らせたんだ」




 自分のことが嫌いだった。

 死の間際、自殺を図った時、おぼろげな意識の中俺は……。


 ああ、ようやく死ねるんだ、と安堵した。


 だから神は、時間をくれた。

 だから神は、外から自分のことを見る機会をくれた。


 せき止められていた砂時計が、ゆっくりと進みだした気がした。


 その後は特に会話もなく、俺達は帰宅した。


 シャワーを浴び、床の間に付いたのは十二時を少し回った頃。

 いつもより布団が重い気がした。

 それだけ疲れが回ったのか。


 その日は、いつにもましてぐっすりと寝ることが出来た。


 ……次に俺が目を覚ましたのは、二日後のことだった。

六章終了となります。

最初は無難に自分の無念を晴らすために乗り移ったことにしようと思ったが、神が人間レベルでの無念どうのを晴らすために力を貸す→意味がわからない。と思い却下になった。


ブクマ、感想、評価をどしどしお待ちしております。

感想返せてなくてごめんなさい。出張が辛いのです。休みの日にババっと返します。


次章最終章『明日を探そう』

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] 最終章が楽しみで仕方ないです。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ