救われる資格
ガチャリと扉が開き、俺と橘さんは社長宅に足を踏み入れた。
玄関先。
下駄箱の上に置かれたくまの彫り物。社長と、奥さんとご子息の写真。
そして、俺達を迎えてくれた社長。
以前よりも少し……社長は白髪が増えていた。そして、豪胆さに拍車をかけていた覇気は、どこかへ消え去っていた。
「どうぞ」
社長が言った。
俺達は靴を脱いで玄関を登り、廊下を歩き始めた。かつて通った時の面影が残る廊下を歩いていると、俺が今どんな状態であるのか、一瞬忘れそうになる。
「斎藤伊織さん」
抑揚ない声で、社長に呼ばれた。
「はい」
「あなたの名前は知っていた。事故被害者の名前は誰一人、忘れることは出来ない」
「そうですか」
事故被害者の名簿なんて、一体どこで入手したのか。
そんな野暮なことは聞けなかった。
「実は以前、あなたのお母さんもウチを訪れたことがあった。彼女は、私の身の潔白を信じてくれていたが……最後まで私は、彼女と会うことを拒んだ」
「どうして、拒んだんです……?」
香織が社長を尋ねた理由は容易に想像がつく。
真実を明らかにするために、香織としては社長を味方に付けて情報を得ようとしたのだろう。
ただ、それを社長が拒んだ理由はわからない。
自分の身の潔白を、するつもりはなかったとでも言うのだろうか。
「……そちらのお嬢さんは?」
俺の問いに答えることはなく、社長は俺の隣にいた橘さんに目配せしていた。
一瞬、俺は固まった。
今更、俺は隣に橘さんがいることに対する社長への説明を、何も考えていなかったことに気付いた。
「妹です」
サラリと嘘を付いたのは、橘さんだった。
ギョッとしたが、橘さんに合わせろの意の肘鉄を受けたので、俺は社長に無言で頷いた。
「そうですか」
「兄は、まだ精神的に不安定な部分があるので。でも、どうしても真実を知りたいと。それだけはなんとしても叶えたいんだと、いつも言っていました。だから、協力しようと思ってここに来たんです」
よくもまあ口からでまかせをペラペラと喋れるものだ。
俺は少し、感心していた。
熱情籠もった橘さんの説明を、社長が不信に思うことはなかった。
ただ結局、社長がどうして香織の来訪を断ったのか。
それに対する説明は成されぬまま、俺達は社長が導いた書斎へと足を踏み入れた。
古めかしい本の香りがする書斎で、俺と橘さんは隣同士にソファに腰を落とした。向かいのソファには、社長が座った。
「……君達がここに訪れた理由は、真実を知りたいためだと言いましたね。でも、真実はもう目の前に転がっているんじゃないのかい。あのバス事故が起きた要因は、私の会社に遭った」
「俺達はそうは思っていません。だからここに来たんです」
「……どうして?」
そう尋ねた社長の真意は読み取れない。
俺達が知り得た情報なんて、社長はもうとっくに……知っているはずなんだ。
それでも、問われた以上説明をするしかなかった。
俺は、橘さんのおかげで知り得た情報を淡々と語った。
「だから俺達は、今回のバス事故に〇〇製作所は無関係だと考えたんです」
俺の説明は、その言葉を最後に締めくくられた。
本来であれば今語ったことは全て、〇〇製作所に……社長に取って、有り難い話のはず。
ただ依然、社長の顔は晴れなかった。
「よく、調べましたね」
「……いいえ、調べてなんていない」
白々しい社長の態度に、俺はこれらの資料を集めてくれた橘さんが隣にいることも忘れて、声を荒らげそうになった。
「今の情報は全て、情報誌を集めただけで得られた情報だ。今回の事件を調べようと思ったのなら、誰でも手に入れられる情報だ。……あなただって、知らないはずがないでしょう」
社長は黙っていた。
「……どうして何も言わないんです。ずっとそうでしたよね。提訴された時から、あなたはこの事故について無言を貫いている。母との面会を拒んだり……まるであなたは今回の件、身の潔白を証明する気がないみたいじゃないか」
「……その通りです」
「何?」
今目の前にいる老人は、俺の知る豪胆な社長とは似ても似つかなかった。
一体、何を言っているのか。
ついに俺は、我慢の限界を迎えて言葉が荒れた。
「私は、この事故の件、身の潔白を証明する気はない」
「何を言っているんですか」
「……私は、もう忘れたいんだ。こんな事故のこと、忘れたいんだ」
弱々しく俯いた社長に、俺は怒りも失せて言葉を失った。
必死に、頭の中で社長の真意を読み解こうとした。でも、いくら思考を巡らせても答えは出そうもなかった。
「……今あなたの言っていることはつまり……かつての部下達を裏切る発言なのではないでしょうか。かつての部下だって、この件でショックを抱えている。トラウマを抱えている。そんな人達を救える人は、あなた以外にいないんじゃないでしょうか?」
橘さんの言葉に、社長は項垂れたようだった。
「……私が声を上げたら、果たしてその人達は救われるんでしょうか?」
社長の言葉は、言い訳に聞こえた。
でも、同意する部分は僅かにある。あの事故から一年が過ぎ、かつての部下も今は別の企業で新たな道を進んでいる。
そんな人達から見れば、今更社長が声を上げることなんて、迷惑極まりない話だろう。
「今更遅いんです」
弱々しい社長が、痛々しくて仕方がなかった。
「私は会社を失った」
変わった。
「かつての部下達は、もう新たな道を進んでいる」
変わってしまった。
「……そして私は……一人、救うことすら出来ず、生命を失わせてしまった部下がいる」
そんな社長が、今日一番女々しく喚いたのは……。
「……文句も言わず、黙々と仕事をする部下だった」
……なんということだろうか。
「いつの間にか彼は戦友のようになり……息子のようにも思っていた」
こんな酷い話があるだなんて……。
「……そんな男を、私は救うことすら出来ず……傷心のまま生命を失わせてしまった」
今、社長が女々しく泣き喚いて伝えた男。
その男はまさしく……。
思わず、俺は橘さんと目を合わせていた。
「私はもう、部下達を救えない。身の潔白を証明する気もない。一番大切だった部下を救うことも出来なかった私に、救われる資格なんてありはしない」