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理由

 社長の家には毎年の暮れ、忘年会の時にお邪魔していた。忘年会会場は別のところでやるのだが、生え抜きとして長く仕事をしてきた数人と社長は、他の社員がいなくなった三次会くらいになると社長のリクエストで彼の家に上がり込むのが定番だった。

 酔っ払い数人がどんちゃん騒ぎする中、社長の奥さんはいつも優しい笑顔で俺達を迎えてくれた。


 夜も更けた頃、騒いでいた連中もウトウトしだした頃、俺と社長はよく二人でウイスキーをロックで啜っていた。


『お前はこの時間になってもまだ元気だな』


 寝ている皆を起こさないよう配慮して、少し小さい声でよく社長に言われた。


『生え抜きの中でも一番下っ端ですから、酒をつぐ時間も多いし……酒を煽り続けた皆と違って、まだ余裕があるだけです』


『そうかいそうかい。そりゃあ結構』


 最近巷ではアルコール・ハラスメントなんて言葉があるようだが、この頃にはまだその言葉は世間に定着していなかった。ただ、社長は自ら部下に酒を強要するような男ではなかった。


 チビチビとお酒を飲みながら、ああして社長と二人で話す時間は嫌いではなかった。

 相手は俺の一番上の上司に当たるが、基本的に言えないことは一つもない……血の繋がらない親のように思っていたんだと思う。それかもしくは、一緒に苦楽を共にする戦友か。

 恐らく、どっちも正しい。


『最近、少しずつこの忘年会で、三次会まで付き合う奴の数も減ったよな』


 しみじみとそういう社長は、寂しそうな顔をしていた。


『時代によって人の考え方が変わっているのかもしれない』


『それだけじゃなく、単純に雇用数の問題もあるだろうな』


 大手自動車メーカー数社と付き合いがあると言っても、最近の子は仕事を求めて上京していく。田舎からは、ドンドン離れていってしまうのだ。

 ただそれだけじゃない。

 一度入った人でも、仕事がきついからと辞めていく。

 もっと給料がほしいから辞めていく。


 そんな人は、やはり少なくなかった。


『社員を守るため、会社は大きくさせなきゃいけない。でも最近、戸惑いもある』


『戸惑い?』


『俺に、経営の才があるのかってことだ』


『何を言うんです。当然あるに決まっているでしょう。社長がいるからこの会社は成り立っているんだ』


『……それはなんとも言えないな』


 まだまだ言い足りないことはあったが、社長は少し火照った顔でクツクツと笑いながら酒を煽っていた。


『お前、結婚はまだしないのか?』


 そうして話は、こういう場ではお馴染みのものへと変わっていった。


『……まあ、お前ならきっと良い人生を見つけられる。応援している』


 その時の社長の優しい微笑みが忘れられない。

 

 忘年会を含めた飲み会の機会は、少なくなかった。

 特に社長とは、深夜の仕事終わりに二人で居酒屋に行き、夜を明かしてから会社にもう一度行くことも少なくなかった。


 いつも社長は、朗らかに豪快に笑っていた。

 そんな社長が見せたしみじみとした笑顔は、今まで俺も一度も見たことがない姿だった。


 社長の自宅の玄関先。

 どうして今、俺はそんなことを思い出したのか。


 わからない。

 感傷に浸りたい気分だったのかもしれない。


 でも、そうじゃないはずだ。

 

 社長の自宅がここにある。まだ、ここにある。


 それは、涙を流すような悲しい知らせではない。

 むしろ、吉報なんだ。


 ……社屋は奪われてしまった。でも、家までは奪われずに済んだなら、まだやり直せる。社長なら、やり直せる。


 話を聞きたい。

 バス事故の件だけじゃなく、あの後どんなことがあったのか。どんな風に過ごしてきたのか。


 話してまた……。


 気付けば俺は、社長の自宅のチャイムを鳴らしていた。


 しばらくして……。


『はい』


 俺は、目尻に涙を蓄えた。

 社長だ。

 今チャイムから聞こえたこの声はまさしく……社長に違いない。


『もしもし? もしもし。また取材ですか。いい加減にしてほしいもんだ、まったく』


 ただ、今チャイムから聞こえた社長の声は、俺が知る優しく豪胆な彼からは似ても似つかないものだった。

 警戒心。

 敵意。


 それらが垣間見えたその声に、俺は気が動転しかけた。


 ……そうか。

 俺は気付いた。


 あの時、俺はあのバス事故の件で世間からバッシングをされた。実名も晒され誹謗中傷され心を病んだ。


 あの会社の経営者であった社長は、俺なんか比でないくらい世間からバッシングを浴びたに違いない。

 マスコミに連日囲われ。

 近隣住民からも蔑まれ。


 そんな社長がアポ無しでの訪問に敵意を剥き出しにするのは、仕方のない話だった。


 ようやく俺は思い出した。

 今俺はかつての俺ではなく、斎藤伊織。

 社長と今の俺は、知り合いでもない赤の他人。


 ……そして、今日俺がここに来た理由は。


 社長の安否確認ではなく……。


「もしもし。斎藤伊織と言います」


『……存じ上げません。どなたでしょうか?』


「……○□県で起きたバス脱輪事故の被害者です」


 チャイムから息を呑む音がした気がした。


「急な来訪で、申し訳ございません。……俺は別に、あなたを咎めたくて来たわけじゃないんです」


『なら、何故?』


「あなたの知っていることを、全て教えてほしいんです」


 チャイムの向こうの声は、なくなった。


「俺はただ、真実を知りたいだけなんです」


 それが、今日俺が橘さんと一緒にここに……足を運んだ理由だ。

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