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卑劣

 香織がどうして俺に自分がわかっていることを全て教えてくれなかったのか。

 正直に言えば、俺は橘さんの集めてくれた資料を読んでいる時、途中から自分の身の潔白のことよりそのことばかりが気になるようになっていた。

 

 香織が俺に自分がわかっていることを教えてくれなかった理由。

 最初は、裁判中の内容を喋ることが迂闊に出来ないからだと思っていた。でも、すぐにそれはないと思った。橘さんが集めた情報誌を読み耽るだけで結論が付いたことが俺がそこに思い至った理由だ。

 裁判中の内容を迂闊に喋ることが出来ないとはいえ、今回のように色々なメディアで取り上げられた内容であれば包み隠す必要はないはずなのだ。

 研究所の移転の件。

 ○○製作所の逮捕者数の件。


 その情報を彼女は俺に与えてくれたが、俺が結論を導いた二枚の図面の件は、香織は一切俺に告げることはなかった。

 あの場で俺が関係ないと結論付けたいならば、彼女の知る全ての情報を俺に与えてくれたって良かったはずだ。


『彼のせいじゃない』

 

 週刊誌でも勇み足とまで言われる△△重工の提訴。

 俺も、今回橘さんの集めてくれた資料を読んではっきりした。

 俺の身の潔白と、そして△△重工は〇〇製作所に……俺に、責任をなすりつけようとしていたこと。


 香織は、遺族の会代表である彼女は……今ここで資料を読み耽った俺よりもより正確に、明確に俺とあのバス事故の関係性は事実無根だと気付いたはずだ。


 ……恐らく、あのバス事故の原因は、△△重工の設計ミスなのだろう。

 いち早くその事実に気付いた△△重工は、バス運営会社に悟られ責任追及される前に何とか罪から逃れる術はないかを模索した。

 その時、目の前に転がってきたのが○○製作所の誰かから……タレコミされた図面だった。

 この図面は使える。△△重工はそう判断したに違いない。法律に関することは詳しくはないが、バス事故に対する世間の注目を、△△重工から○○製作所になすりつけられるとは考えていたに違いない。

 事実世間の注目は、バス運営会社から○○製作所だなんて、一生日の目を浴びることがないような中小企業にすり替わり、中間にいた△△重工は咎められることなく難を去った。


 ……香織は、こんな結論だって俺なんかより数倍早く、事前に、知ることが出来ていたに違いない。


『……具体的には……正直に言えば、何もないの』


 でも香織は、しらを切った。


『……でも、知られちゃったのならもう……隠し事はしない。あたし、あなたに全てを伝えようと思う』


 俺に、全て伝えると言ったのに……まだ誤魔化した。


 今更、香織に対して責める感情が芽生えることはない。

 彼女は俺が伊織の身で生きる間も、彼女の家族。そして俺のために戦い続けてくれていたのだから。隠し事一つくらい、文句を言える筋合いはない。


 でも……生真面目で優しい彼女の性格を俺は知っているから。


 きっと、悪感情があって俺に全てを伝えなかったわけではないことは、わかってしまう。


 ……今までの内容を整理して、一つ気付いたことがある。

 それは、一年以上経ってもまだ、この事件が決着していないことだ。

 どこかに対するバッシングなんかではなく、真実が明るみになること。


 それが、今回のバス事故の終着点。


 ……俺が、俺の身に巻き起こった真実を探しているように。


 被害者の家族である香織達もまた、真実を探しているのだ。

 一年以上、探しているのだ……。


「……真実が、まだ明るみになっていないから」


 俺は呟いた。

 橘さんの持ってきた資料でわかるくらい、目の前には情報が揃っている。


 でも結局、そう……全ては香織の言った通り。


『……具体的には……正直に言えば、何もないの』


 今回のバス事故は、誰が原因で巻き起こったものなのか。

 複合的な要因なのか。初歩的な要因なのか。

 故意か。偶然か。

 他のバスに波及する問題ではないのか。

 同じような、凄惨な事故が起こる可能性はないのか。


 △△重工は、暗に事故の主犯格は〇〇製作所だと世間に伝えるような提訴を行った。

 その結果、〇〇製作所は世間から猛烈なバッシングを浴び、社員一人が自殺。辞職も多数。そして会社は……更地になった。


 でも結局、〇〇製作所が世間からの信用失墜という社会的制裁を浴びただけであの事件はまだ……何一つ、明るみになっていないのだ。


「△△重工の狙いは、時間稼ぎだろう。時間を稼いで、皆が今回の事故を忘れるのを待っているんだ」


「今の政治家みたいね」


「うん。……考えうる限りでも最も卑劣で、最低な、許されざる行為だ」


 資料を読み解くに、バス運営会社から遺族へ向けて補償金は支払われたようだ。自分達の家族がこれっぽっちの金額だったわけがない、と遺族の人は憤慨していたとも記事には書かれていた。

 金を払う、という一つの事件の終幕は迎えている。


 でも、遺族の会はまだ活動を続けている。

 真実を知りたい。そう思っているからこそ、それを続けているのだろう。


 ……でも、時間が経てば経つほど事故の詳細を知るのは難しくなっていく。

 現場検証。事故車の確認。それらが時間を経過すればするほど確認が容易ではなくなるのも一つの理由だろうが……一番は後ろ盾がなくなることだ。

 真実を知らしめよ、と遺族の人間に同情し、バックアップしてくれる国民の関心が薄れていくことだ。


 国民感情を集めることは、これくらい凄惨でショッキングな……しかも大企業を相手取らないといけない案件であれば必須だろう。

 でも、△△重工の狡猾な策によりそれも弱まっている。


 事件を忘れさせない。

 事件の真相を明らかにするために。


 きっとそれが、今の香織達の活動原理。


 でもそれは今、かつてないほどの窮地に立たされているのだろう。

 だから香織は、俺に真実を話せなかった。


 ……歯がゆさと、怒りに震えそうになっていたことだろう。


 でも香織は……。


『……記憶障害でも、戻って来てくれただけ嬉しいです』


 今日まで、香織は……。


『あなたは伊織。斎藤伊織。あたしの大切な大切な……たった一人の息子よ』


 俺に、そんな姿一度だって見せやしなかった。


『伊織がウチに友達連れてくるの、あたし待ってるね』


 息子に健やかに過ごしてほしいと、それだけをただ願っていた……!


『……彼のせいじゃない』


 俺の身の潔白を信じてくれた……っ!


 何か……。

 何か、ないのか。

 香織を手助け出来る何かは……。


「……一つ、気になっていることがあるの」


 橘さんが言った。


「何?」


「○○製作所について」


 それが一体……?

 尋ねるよりも先に、橘さんは続けた。


「……普通、△△重工相手に提訴されたら、釈明会見なり謝罪会見なりすると思わない? でも、〇〇製作所がそれを行ったって記事が、一つも見つからなかったの」


「……そうなの?」


 そう言えば、△△重工に提訴され、俺が死ぬまでのしばらくの間で、そういった動きをするという話は一度も上がったことがなかった。

 ……いや、覚えてないというのが正しいか。

 どうもあの頃の記憶は、精神的ショックを抱えていたこともあったか、未だおぼろげだ。


「○〇製作所が倒産したって記事は調べたけど……あまり大きくは掲載されていなかった。そうなるまでに数ヶ月の時間を要したこともあるんでしょうけど、それにしたって情報が無さすぎる」


「つまりは、〇〇製作所側が無言を貫いた可能性が高いってわけか」


 橘さんは頷かなかった。

 結局は、憶測でしかないからなのか……。

 でも思えば、もし〇〇製作所が名誉毀損などで、△△重工を提訴し泥沼裁判を繰り広げれば、真相究明に対する動きは今よりももっと加速していたかもしれない。


 逆説的に、俺は橘さんの意見に頷いた。


「……どうして社長は、あの時抗議を一切しなかったんだ……?」


 ただその結論を導いた結果、俺はまた首を傾げることになった。


 橘さんは、呆れてしまったさっきとは違い、真剣な眼差しで俺に頷いた。


「あたしも、そこが気になってる」


「……知りたい」


「うん」


 橘さんは、立ち上がっていた。


「知ろう」


「え?」


「社長さんの自宅、あんたなら知っているんじゃないの?」


 橘さんの言葉に、俺は口をぽかんと開けた。


「知っているの? 知らないの?」


「知っている。変わってないなら」


「なら、ダメ元で行ってみましょう」


 即決即断だった。

 さすがに俺は、戸惑った。


「ち、ちょっと待って。アポ無しでいきなり突撃なんてそんな……。それに、場所はこの前行った地元。ここからは移動費が馬鹿にならないのは、君も知っているだろう!?」


「お金ならあたしが何とかする」


「な、何とかって……」


 男らしく言い放った橘さんに俺は呆れた。

 凛々しい顔つきの橘さんは、まもなくゆでダコのように顔を真っ赤にしていた。


「べ、別に体を売ろうとか考えてないからっ! お小遣いの前借りを頼むだけ! 足りないなら萌奈美姉にも頼み込む!」


「あ、うん……」


 そこまでは思い至っていなかったが、少しずつ明確に否定してくれておいて良かったと思い始めていた。


「……でも、どうしてそこまで?」


 ただ、自分のお小遣いを使ってまで俺に付いてくると言ってくれた橘さんの真意はわからなかった。


「……あたしの隣にはあんたがいる。あんたの隣には、あたしがいる」


 橘さんは、


「あの言葉、嘘だったの?」


 少し、弱気な声で尋ねてきた。


「嘘じゃない」


「なら、一緒に行かせてよ。一人で行くだなんて、言わないでよ? ……あんたのことは、なんでも知りたい。それが例えあんたにとって辛いことだろうと、悲しいことだろうと……。隣に立って一緒に苦しむから」


 橘さんは、懇願するような目で俺を見ていた。


「……ね。お願い」

○とか△とか多すぎんだよ!

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― 新着の感想 ―
[良い点] 橘さんが、一生懸命寄り添う姿は美しいですね こんな一途な思いがどうぞ報われることを祈ってます [気になる点] 今更、香織に対して責める感情が芽生えることはない。  彼女は俺が伊織の身で生き…
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