仲直り
そもそも喧嘩してない定期。
女の子突き飛ばして泣かせただけだから。
高速道路を降りた車がすっかり見慣れた街を走っていく。
夕暮れ沈むこの街で、俺は夢を見ている気分になっていた。さっきまで地元にいて見たあれらは全て夢だったのではないか。
そんな錯覚に陥りそうになっていた。
元の体で生きた時には、あの街以外の世界をロクに知らなかったのに。
この体になって、俺はもうこの街での生活に馴染み始めていたんだな。赤々と染まる地元にはなかったような高いビルを見ながら思った。
香織の運転する車は、高速道路を走っていた時よりもゆっくりと街を走っていた。隔絶された高速道路と違い、歩道とその向こうでは人々の生活がある国道を走っていると、短いタイムトラベルでもしてきたような気分だ。
赤信号。
車が停まり、横断歩道を子供が手を挙げて歩いていく。
この世界で。
この国で生きている間は、さして珍しくもない景色。
でも、そんな世界が今日はどうして、とても愛おしく感じた。
「あたしも一緒に行こうか?」
香織は提案した。
「いや、俺一人で大丈夫」
「もし、ご両親がいらっしゃったらどうするの?」
「謝るよ。それしか、俺に出来ることはない」
「……大人がいるから許されることも、あるんだよ」
「でもそれは、俺が犯した行為に対する贖罪になっていない」
「頑なね」
香織は苦笑した。
「わかった。じゃあもし親を呼ぶって頑なだったらあたしを呼んで」
もしそうなったら、香織は一旦自宅に戻ってまた橘さん宅まで車を走らせる必要が生まれる。
そんな二度手間、踏みたいもんでもないだろう。
「ありがとう」
でも、香織はそうしてくれと言ってくれた。
それだけで、俺は香織の中で、伊織がどれだけ大きな存在なのか、理解出来た。
静かになった車内。
青信号に変わり進みだした車のエンジン音だけが響いた。
高速道路を走る時に比べてゆっくりと進む車は、まもなく俺の目的地にたどり着いた。
「じゃあ、また後で」
「うん」
香織の車は、俺を残して発進した。
俺は香織を見送って、橘さんの家のチャイムを鳴らした。
『はい』
しばらくして聞こえてきた声は……。
「橘さん」
彼女だった。
「……久しぶり」
言ってから、名乗ることもせずに俺が誰か、伝わるもんかと気付いた。
『……久しぶり』
しかし、橘さんの返事を聞くに、どうやら俺が誰か、通じたらしい。
「あの、俺、斎藤伊織です。覚えてる?」
『いや、久しぶりって言ったじゃない。わかっている。そんな、数十年ぶりの再会みたいな重々しい空気を出さないで』
「……ごめん」
覚悟を持ってここに来たのに、ついついタジタジになってしまう。
チャイムを睨んだ後、俺は俯いた。
「……手の怪我は、大丈夫?」
俺は掠れる声で尋ねた。
『まだ直ってはない。でも、あんたが気にすることじゃないでしょ』
「気にすることだよ。その怪我は、俺のせいじゃないか」
『違うでしょ。……ちょっと待ってて』
「親でも、呼ぶの?」
ちらついたのは、香織のセリフだった。
『は? 違う。……こんな話、チャイム越しにすることじゃないでしょ』
プツッとチャイムが切られると、しばらくして橘さんの家の扉が開いた。
精神を病み、こうして橘さんの顔を見るのは、二週間ぶり。
橘さんの様子は、特に変わったことはなさそうだ。強いて言えば、手首に巻いた包帯くらい。
痛々しい橘さんの捻挫に、俺は顔に影を落とした。
橘さんは……。
パチンッ
俺に歩み寄り、両手で俺の両頬を掴んだ。
春先にも関わらず肌寒い乾燥した夜に、俺の頬を掴まれた音はよく響いた。
ただ、痛みはなかった。
橘さんの顔が、目と鼻の先にあったから。
「……やつれたね」
橘さんは目尻に涙を溜めていた。
「……ごめんなさい」
そして、橘さんは謝罪を口にした。
不可解な光景だった。
俺は橘さんに怪我を負わせた。だから、俺が彼女に謝ることは何らおかしいことではない。
でも、橘さんが俺に謝る道理がどこにある。
「あたしはあなたに散々、向き合うことが重要だって言ってきた。なのにあたしは、向き合うことが出来なかった」
橘さんが俺へした謝罪は、なんとも橘さんらしい理由の謝罪だった。
向き合う勇気。
俺も、橘さんのおかげでそれの重要さが最近、ようやくわかり始めていた。
橘さんは今回、俺の犯したかもしれない罪に、向き合うことが出来なかった。
「それは、俺が弱いからだ。俺が受け止めることが出来ないと判断したから、君は俺に話せなかった」
「違う」
橘さんの声は、震えていた。
「あたしは……。あたしはっ、あなたが人殺しの片棒を担いだかもしれない事実を受け入れられなかったっ! あなたが……あなたがもし、あの事件を起こした企業の人間だと思ったら耐えられなかった! だから忘れたかった! あんな事件のこと忘れたかった! ただ、あなたと……いつも通りの平和な毎日を一緒に送りたかったっ!!!」
黙っていれば、橘さんはその平和な毎日が取り戻せると思っていたのだろう。
自分が一人で抱え込めば、俺に事件のあらましが伝えられなければ。
……そんなの、欺瞞だとわかっているのに、橘さんは縋らざるを得なかった。
「ごめん」
俺は謝罪した。
「君を追い込んだ。……本当に、ごめん」
「……わかってるの」
橘さんは俺の頬から手を離して、いつの間にか流していた涙を拭った。
「謝り合って、得られるものなんてなにもない」
「そうだね」
「……あなたは、自分の身の潔白を証明したいって、思ってる?」
「……いいや、思っていない」
身の潔白。
俺が罪を犯したか否か。
最早そんなこと、俺はさして興味はなかった。
俺は死に、もうそれは取り戻すことは出来ない。
だから、今更自分の身の潔白を証明したいかと言えば、それは違う。
……ただ。
「俺は、真実が知りたい」
その結果、やはり俺の勤めた企業が原因であるとなっても、それならそれで構わないと思っていた。
全ては、俺が先に進むため。
答えを、知りたい。
「……あたしは嫌よ」
俺は何も言わなかった。
「あたしは、あんたの身の潔白を証明したい」
橘さんの気持ちが、嬉しかった。
「あんたとっ、また平和な毎日を送りたい」
そこまで想われていただなんて、思いもしなかった。
「一緒に古書店に行きたい」
……橘さんの言葉は、いつになく熱が篭っていた。
「優香と三人で夕飯を食べたいっ」
今橘さんが吐露するそれは最早……告白に近い、と思わされた。
「あなたの隣にいたいの……。それだけなの」
橘さんの思いに応えていいのか。
俺は、瞼を閉じて考えた。
でも、少し考えてすぐに答えは出た。
「手伝ってほしい。橘さん」
彼女の想いに応えるには、俺はまだ勇気がない。
向き合える勇気がない。
……きっと、その勇気が伴う時は。
俺が、今一番のトラウマを克服した時に違いない。
「あのバス事故に関することを、調べたいんだ」