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大切な人

 車は相変わらず高速道路を走っている。この辺の高速道路は、直線で平坦な道が続いて面白みがない。かつてこの辺を仕事で走った時にも、俺はそんなことを思っては眠気を堪えながらあくびを掻いていた。


 ただ、今日は……あの時のように平坦な道を走るが、眠気は襲ってこない。


 むしろ、ドクンドクンと大きな音を立てて心臓がやかましいくらいに鳴っていた。


 記憶が戻っているか、どうか。

 香織の質問に対する回答を、俺は模索していた。


 香織がその質問をした意図はわからない。

 そもそも記憶喪失という設定は、伊織の体に入りたてで彼のことを何も知らない俺の状態を見て、当時の医師が勝手にそう解釈しただけの偽りの診断結果だ。


 だから、正しいことを言えば、そもそも記憶を失っていない、と言うのが正しい。

 しかし、今更そんなことを言えるはずもない俺は……必死に考えた。


「ううん。戻ってないよ」


 でも、結局出した答えは現状維持。

 俺が最も嫌うことだった。


「……そっか」


 幾ばくかの間を置いて、香織は呟いた。


「大変だったでしょう。記憶喪失だったにも関わらず、クラスメイトからサポートをしてもらえなくて」


 ただようやく、俺は香織が何を言いたくてそんなことを聞いたか理解した。


 香織は今、自分を責めているのだ。

 伊織に敷いた徹底的な箝口令。

 あれは何も、伊織に対して意地悪をしたくてした行いではない。むしろ、真実を知った時、伊織が心を病まないようにするため、苦肉の策でそうしたのだ。


 もし、伊織が目覚めた瞬間に真実を知ったとしたら……。


 自分が、生命の危機に瀕していたことを知ったら……。

 自分と一緒にいた、父親が亡くなったとしれば……。


 ……発狂しても、何らおかしくはないのだ。


 でもいくら伊織のためとは言え真実を隠したことに香織は……自責の念を抱いているのだ。

 間違ったことをしたとは思っていないだろう。


 でも、正しいことをしたとも、思っていないだろう。


「……ごめんね」


 今にも泣きそうな顔で、香織は呟いた。

 ハンドルを掴む手は震えていて、どれだけの間、彼女が一人で……葛藤していたか、俺は理解した。


 悲しむ香織を見て、俺はかける言葉を見つけられずにいた。

 俺が言葉をかけることは簡単だ。

 でも本来、ここで香織に声をかけるべきは……励ますべきは、俺ではない。


 ……その役目は。


 香織の夫であり。

 伊織であった。


 ただ彼らはもう……いない。


 ……香織は俺のせいじゃないと言ってくれた。

 でも俺はまだ、半信半疑だ。


 自動車メーカーと付き合うことは、他人の生命を預かること。

 そんなことは常識的に理解していたし、自分の部下にも口酸っぱく言っていたこと。


 だから俺も、その意識で細心の注意を払ってきたつもりだった。


 でも、事故が起きた以上……そんなの言い訳でしかない。


 やっぱり。

 やっぱり俺は……香織の大切な人達を、奪ったのかもしれない。


 怖い。

 でも、恐怖に臆す資格は俺にはない。


 ここには、香織を励ますことが出来る人はいない。

 その人らは、俺が生命を奪ったのかもしれない。


 だとしたら……。


 俺は、どんな十字架を背負ってでも、演じるべきなんだ。


「大丈夫だよ」


 俺は気付いた。


「クラスメイトは皆良い人だったし、友達だって出来た」


 これもまた、向き合う勇気。


「それに俺には、橘さんがいてくれた……」


 橘さんが。


 ……教えてくれた、大切なこと。


 どんな十字架をも背負う覚悟をした。

 でも今俺は、良心の呵責に苛まれた。


『離してくれっ!』


 理由は……。


「なのに俺は、その橘さんを傷つけた」


 子供の粗相のような話だった。


 それなのに……。

 それなのにっ。


 瞼を閉じれば、俺の傍で泣きじゃくる橘さんを思い出した。

 あの時、手を痛そうにしていた橘さんを放って調査に耽る愚かな自分が恨めしかった。


「……さっき、あたし話したよね」


 香織は、静かに続けた。


「事故前、最後のあなたの言葉が、あたしは未だに忘れられない」


 俺はまた、黙って香織の話を聞いていた。


「……遅れてでも、来てくれよ。実はあれ、お父さんにも後で言われたの。……でもお父さんとは結局、会うことが出来なかった」


 香織の声は、優しくて寂しそうだった。


「人は、いつか死ぬ生き物なの。この世のどんな動物より賢くて、自分の意思を持っている生き物だけど……他の生物と同じようにその生命はいつか尽き果てるの。そんな惨たらしい最後しか待っていないのに、あなたは、どうして人が生きていると思う?」


「……どうしてだろうね」


「後悔しないためよ」


 後悔しないため……。


「お父さんと同じように、あたしも……そしてあなたも、いつか死ぬ。あなたが死ぬ時、あたしはこうなっていてほしいと願ってる。……後悔がない人生だったって」


 香織の言葉に、俺は頭に思い浮かべた人がいた。

 それはまさしく、俺だ。元の体の俺だ。


 後悔ばかりの人生だった。

 成り行きに身を任せて愛する人と別れ、その愛する人への想いを引きずり、そして、無念のまま死んだ。


 努力を重ねてきた自負はある。

 でも、もっとより良い人生に出来たんじゃないかって思いもある。


 人生には、分かれ道が無数に存在する。

 その分かれ道一つ一つに熟考し、正しい選択肢を選べていたらきっと俺はもっと素晴らしい人生を歩めたんだろう。


 分かれ道一つ一つに……向き合ってきたら。


 きっと俺は、笑って逝けた。


 ……香織はきっとこう言いたいんだ。


「母さん、お願いしてもいい?」


 今俺は、岐路に立っている。


「当たり前じゃない。あなたはあたしの子供なんだから」


「帰り、途中で下ろしてほしい場所がある」


 どちらの道に進むかは、俺次第。


「橘さんの家の前で、俺を下ろして行ってほしい」


 橘さんとこのまま永久に別れる道。

 橘さんの隣を歩く道。


 そのどちらを選ぶも俺次第。

 俺の選んだ選択肢に文句を言う人は、きっと誰もいない。


「謝るの?」


「謝る」


 でも、俺はわかっていた。


「でも、きっと橘さんは怒っていない」


「それでも、謝るんだ」


「うん。向き合う勇気。俺はそれを橘さんに教えてもらったんだ」


 彼女が許してくれても。

 俺は、自分の仕出かした行いを許すことは出来ない。


 だから、けじめを付けるんだ。


「向き合う勇気、か。……怖くない?」


「うん。大丈夫」


 思い出した言葉があった。


『あたしがいる』


 忘れもしない、何度も何度も救ってもらった言葉だ。


『……隣には、あたしがいる』


「橘さんが隣にいないだなんて、もう考えられないんだ」


 だから俺は向き合う勇気を奮い立たせた。

 目の前にある岐路を決めた。


 死ぬまで、後悔をしないように。


「そっか」


 香織は、優しく微笑んでいた。


「……美玲ちゃんが、妬けちゃうくらいに羨ましいよ」


 そして、香織は呟いた。

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