好きだった人
記憶を思い出してから、俺は自分がこの記憶をどうして失ったのか。よくわかった。
辛いだけのこの記憶を俺が忘れたのは、言ってしまえば自衛のようなもの。
逆行健忘症。
いつか、この伊織の身で医師に、記憶障害であるその症状を診断されたことがあった。
あの時は、上手い具合に理由付け出来る症状を診断してもらえたと思ったが、多分あれはあながち間違いではなかった。
そして、その記憶を思い出したからもう言い逃れは出来なかった。
俺は間違いなく、あのバス脱輪事故の加害者だ。
あの日、俺達はいつも通り通常の業務をこなしていた。バス脱輪事故から一週間後の出来事だ。
あのバスには俺が勤めた企業の製作した車軸が使われていたことは知っていた。でも、あの時の俺はまだ、まさか自分がそのバス脱輪事故の加害者として吊るし上げられることになるとは思っていなかった。
当初、あの脱輪事故の責任追及はバスの管理会社に及んでいた。遺族の会は早々に創設され、連日ニュースを賑わせていた。
ただその時の俺は忙しく、スマホでその事故の状況を概要で時々確認するくらいのものだった。
契機は、突然の△△重工の記者会見だった。
その内容は、思い出すだけで具合が悪くなる内容だった。
謝罪から始まり、理路整然と担当者が告げたことは、車軸に寸法NGがあったことと、その車軸を作った会社が……俺が当時に勤めた会社だった、ということだった。
その翌日から、会社の前には大量のマスコミがカメラを構えて待つようになり、俺達は突然渦中の人となった。
心身ともに削られる日々だった。
企業の杜撰な管理体制の指摘。
そして、悪意を持った誹謗中傷の数々。
最終的には俺の名前は匿名掲示板で晒されるまでに至った。
生え抜きで人より一段早く出世した俺は、社内でも敵の多い人間なことは知っていた。ただ、人の悪意はここまで恐ろしいのか、とその時恐怖した。
会社の人間は一人。また一人と会社を辞めていった。
△△重工からの提訴。
そして、人材不足。
更には、酷い誹謗中傷。
精神を病んだ俺は、統合失調症にまで陥って……そうしてかつてを懐かしむようになった。
学生時代。あの頃は良かった。あの頃に戻りたい。
そう考える内に、俺は思った。
死ねば、人生をやり直すことが出来るのではないか、と。
覚束ない足取りで、宛もなく靴も履かず、俺は歩き出し……。
そして、遮断棒の降りた踏切内に侵入して、生命を落とした。
あの時はよく思っていた。
……どうして俺が、こんな目に遭わないといけないんだって。
俺は悪くない。
そもそも、俺が他部門の仕事にまで手を回さなきゃいけない状況に陥っている会社の体制。そして不真面目な他の社員が悪いんだ。
そんなことばかり、考えていた。
多分、その考えは間違っていない。
でも、今同じことを俺が言えるかと言えば、そんなことは決してない。
大切な人の家族の生命を奪ったことを知って初めて……俺は自分の浅ましさを呪った。
「……その花、ここで死んだ人に?」
俺は、香織に尋ねていた。
そんなこと聞かずともわかりそうなことなのに、尋ねずにはいられなかった。
「そうだよ。ここで亡くなられた人、実はーー」
「どうして、そんな男に花を供えるんだよ」
香織の言葉を遮って、俺は吐き捨てるように言っていた。
握りこぶしを作った手のひらが痛い。恐らく血が出ていた。
……どうして。どうしてなんだ。
「そこで死んだ人って、○○製作所の社員だろ?」
久しぶりに香織の顔を見た。
吐き気はない。
ほとばしる怒りのせいか。
わからなかった。
香織の考えが、わからなかった。
「……そうだよ」
「なんでそんな奴に花を供える必要があるんだよっ!」
……俺のしたことは、決して許されることではない。
それでいて俺は、かつてその罪を他人のせいとさえ思い、誹謗中傷する連中さえ呪い……自分は何も悪くないと逃げて……っ!
「そいつのせいで……。そいつのせいでお前はっ、お前の旦那を失ったっ! お前の息子も失いかけたっ! なんでそんな奴に花を供える必要があるんだよっ!
なんでだよっ!!!」
大声で、俺は叫んだ。
叫ばずにはいられなかった。
目からは大粒の涙が溢れた。泣かずにはいられなかった。
皆が俺を責めた。
あの事故は俺のせいだと、マスコミも、社長以外の社員もっ!
親でさえ俺から距離を置いたっ!!!
なのに……。
なのに、どうして香織はそんなことをする。
どうして俺に、供花なんてしてくれる……っ。
「……彼のせいじゃない」
香織の言葉に、俺は言葉を発することが出来なかった。
俺の、せいじゃない……?
俺のせいじゃ……いや。
そんなはず。
そんなはず……。
「そんなはずないっ! そんなこと、あるはずがない!!」
「そんなことある。彼のせいじゃないよ」
「根拠はあるのかっ」
「あるよ」
もう、涙で前は見えなかった。
香織は、一歩一歩俺に歩み寄って……そうして抱き締めた。
「あたし達、恋人同士だったんだもん」
……それは。
根拠とはとても呼べなくて。
でも、俺の心を落ち着かせるには十分な言葉で……。
「彼のことならあたし、何でもわかるんだ。楽観的な性格も、マイペースな性格も。……でも本当は繊細で臆病で、なんでも抱える性格で。楽観的な姿はただの強がり。彼は誰よりも真面目で、誰よりも真摯に物事に向き合う人だった。だからわかる。
あの人のせいじゃない。
あの人は、何も悪いことをしていない」
……論理的ではない。
いくらでも否定出来る言葉だ。
でも、俺は文句を言い返すことは出来なかった。
嬉しかった。
香織が、俺のことを知っていてくれて。
香織が、俺の身の潔白を信じてくれていて。
香織が、俺のことを未だに想ってくれていて……っ!
……嬉しかったんだ。
「……うぁぁぁああ。ああぁぁああああっ!!!」
俺は、大きな声で泣き叫んだ。
恥も外聞もかなぐり捨てて、香織を強く抱き締めて泣き叫んだ。
香織は、俺の頭を優しく撫でてくれた。
……この姿になって。
かつてと違う香織の一面を。
かつてと違う香織の姿を。
俺は、何度も……何度も何度も、目の当たりにしてきた。
でも今、俺を優しく抱きしめる彼女は……。
かつて見ていた俺の好きだった人と、同じだった。
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なんでやねん!
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