詭弁
一週間、俺は家から外に出ることが出来ずにいた。
何とか多少は落ち着きを取り戻し、自室の外に出て香織と会話が出来るまでには回復していた。ただ、目を合せることは未だ、出来ていない。
そして、一緒にご飯を食べることも出来ずにいた。
香織の目の前でご飯を食べていると、すぐに食べたものを吐き出してしまうようになった。
咳き込みながら床に吐瀉物を撒き散らす俺を鑑みて、香織は俺と食事の時間を別にするように取り計らってくれた。
あの日以来、明確に俺は変わってしまった。
自分の犯した罪への罪悪感に苛まれ、潰れてしまいそうだった。
苦しかった。
いっそ、死んでしまいたいとさえ思った。
……でも、今の俺より深い苦しみを味わいながら死を遂げた人がいる。
その人は香織の家族で。最愛の夫で……。
そうして、その人の生命を奪ったのは、他でもない俺。
「うぉえっ!」
俺はまた、食した全てを口から吐き出していた。
たった一週間。
たった一週間で俺は……人ではなくなってしまった。
そんな気がした。
でも、それも当然か。
他人の生命を身勝手に奪い、そうして生命の危険に陥れた人の体に乗り移り……のうのうと生きる俺に与えられた罰と考えたら、こんなのはまだ生易しいくらいだと思えた。
最近、よく考える。
神は、一体どうして俺を伊織の身に乗り移らせたのか。
無宗教の癖に、そんな神秘主義のなり損ないみたいなことを、ずっと考えている。
きっと、神は俺に罰を与えたのだ。
他人の生命を奪い、苦しめる俺に……その人達が味わった分、苦しめと罰を与えたんだ。
目を瞑った。
このまま、もう起きることがなければいいのに。
そんなことを考えて眠りについて、また翌朝目を覚ますのだ。
また朝を迎えたことを呪ったことは、生まれて初めてだった。
再び、一週間の時間が流れた。
相変わらず俺は、どうしようもない状況になっていた。
もう二週間も学校に行っていない。
橘さんは元気だろうか。
直前に俺に突き飛ばされて、あの時彼女はどうやら手首を捻挫したらしかった。
加害者の癖に俺は、すぐに彼女の治療もせずにスマホで自分の仕出かした罪を調べて回っていた。
色んなこと、彼女と一緒にしてきた。
でもきっとあの無責任な姿を見て、彼女は俺に愛想をつかせたことだろう。
一瞬、それがとても残念なことに思えた。
でも、それで良かったんだとすぐに気付いた。
人殺しの俺と一緒にいるより。
いつもお世話になった彼女をあっさり放って傷つける男なんかと一緒にいるより。
……香織のように、彼女ももっと頼りになる男を探すべきだ。
心を支えてくれる人。
一緒に悩み、涙を流してくれる人。
一番辛い時に、手を差し伸べてくれる人。
彼女は優しい人だから。
きっと、すぐにそんな素晴らしい人と出会えることだろう。
そして……もう、多分俺は橘さんと会うことはないんだろう。
直感的に、そう思った。
「伊織」
久しぶりに、自室の扉がノックされた。
香織の声だった。
努めて、明るく振る舞ったような、無理のある声だった。
「明日、行きたい場所があるの」
扉越しでしか、俺はもう香織とは話せない。
「……どこ?」
「明日、教える」
香織とは未だ、まともに顔を見合わせることは出来ない。
顔を見合わせた瞬間、深い罪悪感に駆られて、胃が重くなり、口から含んだもの全てを吐き出してしまう。
なのに、一緒にお出掛けなんて、出来るのだろうか?
……わかっている。
するべきだ。
俺が……いや、伊織がこのままやつれていくことを、香織は一切望んでいない。
最愛の息子の憔悴する姿なんて、香織は一切見たくないはずなんだ。
今俺が見ている世界は、俺ではなく伊織の世界。
俺は香織の息子として、彼女を安心させる義務がある。
俺は……これ以上、香織に心配をかけてはいけないんだ。
「わかった」
自信はない。
でも俺は、香織の提案に同意した。
俺は、伊織として生きていくと、いつか心に誓ったはずだから。
だから、そう選択せざるを得なかった。
でも、薄々気付いていた。
今俺が見ている世界は伊織の世界。
でも俺は結局、正真正銘伊織になることは不可能なんだってことを。
伊織になろうと努力した。
自分の死を知ったことを契機に区切りを付けて、清算して……俺は伊織になると決意したはずなんだ。
でも結局俺は、俺の仕出かした行為で後悔をし、苦しんでいる。
結局俺は、俺なんだ。
結局……俺が、本当の意味で伊織になれる日なんて、来やしないんだ。
伊織になる、だなんてことを考えること自体、詭弁以外の何者でもないんだ。
「行きましょうか」
翌朝、俺達は香織の運転する車で家を出た。
相変わらず香織の顔を見ることは出来なかった。
助手席に座って、俺はずっとシートの方へ視線を落としていた。
香織は、無理に俺に話しかけてくることはなかった。
ただずっと黙って、車を走らせていた。
車はいつの間にか高速道路に乗り込んで、車道を進んだ。
香織の軽自動車は、スペックギリギリの速度で走っているのか、車内には軋む音が聞こえる時もあった。
「そんなに急く必要、ないんじゃない?」
思わず、俺は言った。
俺は別に構わない。でも、彼女に生き急ぐような真似をしてほしくなかった。
「早く着きたいの」
香織は、一体どこに行こうとしているのか。
ふと、俺は車内に花の香りが充満していることに気付いた。