憔悴
橘さんは、その後帰ってきた香織に連れられて家に帰った。
俺は、帰ってきた香織にこっぴどく怒られながら何があったのかを尋ねられた。ただ、その問いに答えることは出来なかった。
それを語れるような状況ではなかった。
その日は結局、眠ることは出来なかった。
目を閉じてしまったら。
夢を見てしまったら。
俺は、消えてなくなってしまうような気がしていた。
でも、それでも良いかと思うくらい、俺は今自棄になっていた。
一睡も出来ぬまま迎えた翌日。
香織は今日も、喪服に身を包んでいた。
「あなたに、隠していたことがあるの」
香織は、粛々とした顔で続けた。
「実は今日、お父さんの一周忌なの」
……嘘だと言ってほしかった。
昨日見た光景は全て夢で、あのバス脱輪事故と、香織の夫と伊織は無関係だと……そう言ってほしかった。
でも、悲しそうな顔をする香織を見たら、それが現実だと受け入れざるを得なくて……俺は、過呼吸に陥った。
いつの間にか気を失っていたらしい。
ベッドの上から窓の外を見ると、外は既に真っ暗になっていた。
部屋の外からは香ばしい香り。
どうやら、法要はとっくに終わって、香織も夕飯の支度をしているようだ。
昨日あの後、俺は能面のような無表情を貼り付けて、すすり泣く橘さんを放って、一人スマホであのバス脱輪事故のことを調べた。
近所の死傷事件の時とは違い、世間の注目も強く集める事件だったからか、バス脱輪事故の情報は調べれば調べるほど、溢れるように出てきた。
これまでは都内で香織の家族は事件に巻き込まれたと思っていたからあの事件はノーマークだった。
ただ、調べた途端、遺族の会代表を香織が務めていることが発覚し、そしてまた彼女の夫と息子がその事故により被害に遭ったことも彼女へのインタビューで明らかにされていた。
フリーランスながら、翻訳家として香織はかなり幅を効かせていたそうで、その界隈では有名人だったそうだ。
そんな有名人の家族が事故の被害に遭う。
マスコミは、事故の凄惨さもさることながらそのことにも目をつけて、事件への関心をより一層強めたそうだ。
俺は、地元で暮らしている時、かつての恋人がそこまで有名人になっていたことも知ることはなかった。
それでも、あの時はそんなことに気を留めていられるほど、俺も冷静ではなかった。
橘さんの心変わりの理由。
その理由に予測が付いた時。
そして、調べた結果それが正しかった時。
もう俺は、他人の心配を出来るような状態ではなくなってしまったのだ。
更地になった俺の会社。
どうして更地になったのか。
地元に帰った時、もっと冷静に、もっと論理的に事を運ぶべきだった。
そうすればもっと、昨日取り乱すことなく……それこそ橘さんを傷つけることなく、事を済ませられたかもしれない。
俺の勤務していた会社は、切削メーカー。自動車メーカーを主に相手取り、生計を立てていた。
俺はそこの会社で生産技術の部長にまで上り詰めて、管理者の立場となり、経営を引っ張ってきた。
そうなれば、自分の製品がどんな車に使用され、どんな部分に使用されるのか。
それも、当然知っていた。
ニュース動画を漁る中、俺は崖下に落下し炎上しているバスの動画を見つけた。
三十秒の短い動画の中には、夜間の山中に響く救助隊の決死の声と、その場を丁度通行し、少し興奮気味に状況を撮影するカメラマンの声が収められていた。
救助隊のライトに照らされたバスに、俺は見覚えがあった。
あのバスは、一つの切削部品の受注をメーカーからもらった時、メーカーの担当者から使用される車種だと写真をもらっていたのだ。
あのバスには、俺の会社で制作した切削部品が扱われていた。
その使用部位は、まさしく車輪と車輪をつなぐ車軸部分。
俺の勤めた会社が関与していたとニュースには記載されていた。
その意味はつまり……俺の勤めていた会社から納品された車軸に、不良があったということだ。
あの会社で俺にかかる比重は尋常なものではなかった。
メーカーとの付き合いから製品出荷まで、俺はほぼ一人でそれら全てをこなしていた。
……つまり。
橘さんが俺に伊織の巻き込まれた事件を隠した意味。
それは、伊織の事故を調べれば自ずと俺は俺の仕出かした行為で香織の夫を……最愛の息子を、奪った現実に直面することになるから。
その事実と向き合うことが酷だと思ったから、彼女は俺に過干渉になり、真実から遠ざけようと取り計らった。
『あんたは、あたしなんかより……よっぽど、強いよ』
そんなことは、ない……。
今俺は、自分の仕出かした事の大きさに、深い後悔と自責の念を抱いている。
「……なんでだ」
いや違う。
深い後悔と自責の念を抱いていることは事実。
でも俺は、あの時バスに乗っていた乗客の生命を奪ったことに、後悔しているわけではない。
「なんで、香織の夫と伊織が乗っていたんだ……」
……もし。
もし、乗客に知り合いがいなかったら……後悔はしても立ち直ることは出来た。
自責の念を抱いても、やり直そうと思えた。
でも、でも……っ。
俺は耐えられなかった。
事実を受け入れることが、出来なかった。
……香織の家族がいなければ、耐えれていたんだと思う。
俺が生命を奪った人達の中に、よりにもよって香織の……かつての恋人の。二十年も想いを引きずった恋人の家族がいたから……!
それが人として間違っていることはわかっている。
でも、それくらい俺にとって香織は……大切な人だったんだ。
「そんな大切な人の家族を、俺は殺した……っ」
布団にくるまって、俺は涙を流した。
もう戻らない生命の重さに、恐怖を抱えて涙を流した。
香織が夕飯の支度が出来たと俺を呼んだ。
俺は、食欲もなく、ただ自室で涙を流した。
10話くらい全力で引きずらせたかったけど、5話以内に立ち直らせるわ。