悲劇
「今日はどうしたの? 橘さん」
神出鬼没。
忍者のような橘さんに俺は尋ねた。
というか、香織が出掛けたこの家には鍵がかけられていたはず。
本当、一体、どうやってここに?
「鍵は、香織さんに預かってた」
「え」
初耳である。
「か、勘違いしないで。あんたのことが心配だから、あたしから貸してほしいと言っただけじゃない」
「まあ、それは違うだろうね」
大方、香織の方から提案した事柄だろう。
今日、香織が出掛けることは事前に橘さんに伝わっていて、だからこそ家に来た、と。
では何をしに来たか。
「……いや本当、何をしにきたの?」
「そ、そんなにあたしに来てほしくなかったの?」
「ち、違う! そんなことは決してない!」
橘さんの声は震えていて、俺は立ち上がって慌てて弁明した。
確かに、拒絶するような言い方をしていた。俺は今更になって自分の態度が悪かったことに気付かされた。
実際、今ここに橘さんがいること。
内心それは……嬉しかった。
でも、口には出なかった。反射的に、口から出すことを俺は拒んだ。
「……今日、香織さん一日出掛けるって聞いたの。それで提案された。馬鹿息子の面倒、一日見てくれないかって」
……馬鹿息子。
橘さんの言葉には幾分かの恨みが篭っていた。だから俺は、乾いた笑みを浮かべることしか出来なかった。
「そんな話を聞いたら、あたしがここに来るのは当然でしょ。何か文句ある?」
「いや、文句は……別に」
別に。
どこかの誰かのような口ぶりをしてしまった。
「……っというか、当然って」
「当然だよ」
橘さんは踵を返した。リビングの方に向かうのだろう。
「……だって、今日はここで、あなたと二人きりなんだよ?」
伏し目がちに放たれた橘さんの言葉に、俺は言葉を失った。
拒絶の意思での無言ではない。
呆気に取られた、無言。
でも、内心に宿るこの温もりは……そういうことなんだろう。
「お昼、何食べたい?」
橘さんに尋ねられた。
「……きんぴらごぼう。鯖の塩焼き。豚汁」
「凄い具体的だね」
橘さんは口元を隠しながら微笑んだ。
「俺も、手伝うよ」
「いい」
「でも……」
「してあげたいの」
橘さんは俺の自室を後にした。
……どうして。
こんな俺なんかに、そこまでしてあげたいと思うのか。
理由はわからないが、橘さんに甘えようと決意した。きっと手伝った方が、今の彼女は怒るような気がしたから。
ただ、せめて彼女がしてくれる間は彼女の傍にいよう。
そう思って俺は、振り出しに戻った調査を一旦中断して、リビングへ向かった。
昨日夜ふかししたせいで、時刻はまもなく昼の十一時。
夕飯の準備を始めるのに、丁度良い時間と言えた。
リビングに出て、キッチンの方を見ると、橘さんは今日は下ろしてきていた髪をいつも通りの短いツインテールにまとめていた。
そして、エプロンを結び……。
俺の目は、そんな所作をする橘さんに釘付けになっていた。
「自室で待ってて良かったのに」
「……君と、一緒だよ」
こんなこと言うつもりはなかった。でも、感情に乗せられた。
「今日はここで、君と二人きりだからさ」
「……何よ、それ」
橘さんは、照れながらはにかんだ。
向こうから洗濯機の音が聞こえた。俺が寝坊助している間に、橘さんが回してくれたのだろう。
……本当に。
本当に、一体俺はどれだけ、彼女に助けられているのだろう。
俺はリビングのソファに腰を落とした。
そして、キッチンで調理に励む橘さんを横目に見た。
橘さんとの初めて会った日のこと。
俺は再び、それを思い出していた。
今俺の中に芽生えている感情は……あの時を思い出すと、抱くことはないだろうと思われたような感情だった。
そんな感情を抱いた事実を自覚すると、これまでの橘さんとの時間が、蘇るのだ。
楽しかった思い出。
辛かった思い出。
泣いて。笑って。
そうして、抱き締めあったあの日のこと。
今、俺は……。
「そ、そんなにまじまじ見ないでよ。恥ずかしくて集中出来ない」
橘さんは少し早口にまくし立てた。
「……ごめん」
でも……。
口には出さないが、そんな無茶なことは言わないでほしかった。
橘さんと二人きりのこの空間で、橘さんを意識するなだなんてそんなこと……。
そんなこと、今の俺にはもう……無理なんだ。
ただ、橘さんが嫌がるのであれば仕方ない。
俺は、意識を橘さんから外すために別のことに集中しようと思った。
テレビを付けた。
……思えば、こうして自分の意思でテレビを見るのはいつぶりか。
我が家にはテレビはリビングのここにしかなかった。
ただ、香織が家で仕事に明け暮れる立場上、俺が帰宅する頃には仕事が終わっていれば彼女は大体ここでテレビを見て笑っていた。
そして俺も取り留めてテレビで見たい番組もなくて、最近の若者のテレビ離れよろしく、テレビを見る時間は激減した。
しかも、香織は夕飯時のテレビの視聴を行儀が悪いと禁じたから……。
本当に、約十一ヶ月この家に住んで、ここでテレビを見ている時間は片手で数えられるくらいしかない。
……今、テレビでは。
『○□で起きたバス脱輪事故から丁度一年。△△重工への提訴を進める遺族の会により、本日被害者を偲ぶ会が行われ、参列者達による献花が行われましたーー』
いつか知った、バス脱輪事故のニュースが報じられていた。
このご時世になって起きた数十人の命を奪った凄惨な事件は、今日で丁度一年の歳月を迎えたそうだ。
立派な献花台。
喪服を身にまとった遺族。
その中に俺は……。
俺は、目を疑った。
「……香織?」
白いたくさんの菊の花が献花された台の前にする人の中に、俺は昔の恋人を……。
俺の母を、見つけた。
見間違いだったのだろうか。
いや、見間違うはずが、ないじゃないか。
……全員の血が沸騰していくのがわかった。
遺族の会に香織がいて、献花を行って……。
『菊の花(白) 二基』
献花したそれは……いつか家計簿から見つけたまさしくあの花。
……全てが。
全てが、俺の中で繋がっていく……!
ただ、予想だにしない行動を起こした人がいた。
呆気に取られテレビに釘付けになる俺の前に、キッチンで調理をしていたはずの橘さんがやってきた。
息を荒げて。
慌てて……。
橘さんは、テレビを消した。
俯いて、まるで子供のイタズラがバレた時のように息を荒げて今にも泣きそうな橘さんを見て……。
『あんたは、あたしなんかより……よっぽど、強いよ』
……俺は、いつか言った橘さんのセリフを思い出していた。
「どうして、テレビを消すの? 橘さん」
そう聞きながら俺は、事実を知って強張った力が段々と抜けていっていることがわかった。
これを書き始めた当初からこの設定で進めるべく話を練っていたが、現実でもバス事故が起きてしまいどうするべきか迷った。
でも結局、私には代案を浮かばせる頭もなく、そのまま進めることにしてしまった。
本当、不謹慎で申し訳ございません。