好き
香織の言っている言葉は、中々咀嚼し飲み込むことが出来なかった。目が覚めてから数時間。とっくに覚醒していた脳は、その一言でぼんやりとした。
それでも、ぼんやりとした頭でゆっくりと俺は……香織の言葉を理解しようとしていた。
『美玲ちゃんのこと、好き?』
香織の言葉は、橘さんに対する俺の気持ちを知りたがる質問だった。
橘さんのことが好きか。嫌いか。
それを考えることは生憎、頭がぼんやりしていようが不可能ではなくて、気付けば俺は矢継ぎ早に橘さんとの思い出を思い出していた。
初めての出会いは痴漢されている彼女を助けたことだった。
あの頃の橘さんへの印象は、あまり良いものだっとは言えなかった。口数も少なく、よく俺を睨んでいた彼女の考えは、よくわからなかった。
それから俺達は色んなことを一緒にしてきた。
橘さんの提案で行った公園への監視カメラ設置の交渉だったり。
二十年ぶりの勉強を見てもらったり。
彼女の伝手でアルバイトを始めたり。
一緒に、地元に行ってもらっったり。
そうして俺は、いつの間にか彼女の存在にいつも救ってもらってきていた。
……初めての印象は、何度も言うようにあまり良いものとは言えなかった。
でも、初めて会ったあの日から、別に橘さんのことを嫌いだと思ったことはない。
むしろ俺は、家族想いな彼女に、尊敬の念を抱くことだってあった。
でも最初は、それだけだった。
口数少なく時々俺を睨む彼女が、実は家族想い。そんなギャップに驚き、興味を抱いた。
本当に、初めはそれだけだったんだ。
……あの時もそうだった。
香織との交際を始めた時も俺は、心から香織に惹かれていたかと言えば、そういうわけではない。
最初に、俺が香織に惹かれた要素は、要素は外面だけだった。
でも、香織の柔肌に。香織の声に。そして、香織の微笑みに触れて、俺は……。
香織の優しさ、生真面目さ、面倒見の良さ。
……そして時折見せる小悪魔な一面。
それらをひっくるめた香織の全てに、惹かれ始めたんだ。
その時と、まるで一緒だった。
最初は、口数が少なくよく俺を睨む表現力の乏しい二十歳も下の女の子だった。
『大人が流す涙って、とても尊いものだよ』
……なのに。
『あんたは、あたしなんかより……よっぽど、強いじゃない』
なのに、俺は彼女の良さを今やたくさん語れるんだ。
『あんた、このご時世にクサいこと言い過ぎ』
橘さんは、優しくて、家族想いで、情に熱くて。
『あたしがいる』
そうして、温かい。
いつからだろうか。
彼女が誰かと話しているところを見ただけで胸が痛くなったのは。
彼女と話しているだけで頬が熱くなるような場面に出くわすようになったのは。
『だから……教えて。頼ってほしいの。どんな重荷だって、一緒に背負うから。……だから、だからっ』
……俺も、そうだ。
いつからだろうか。
……彼女に。
橘さんに、頼られたい、と思うようになったのは。
この気持ちの正体を俺は知っている。
香織の回答への答えも、はっきり出ている。
なのに俺は、口ごもった。
この感情の正体を俺は、目の前にいる香織に教えてもらったはずなんだ。
なのに、喋ることが出来なかった。
「ご、ごめんごめん。そんな深刻そうな顔しないでよ」
香織にフォローされた。
情けない。
気持ちの一つ親に打ち明けることが出来ないなんて、情けない……!
……今、俺が見ている世界は伊織の世界。
そうわかっていたはずなんだ。
そう、生きるつもりでいたんだ。
なのにまだ俺は……躊躇っている。
三十五歳の自分を、捨てきれずにいる。
だから……口から答えを出すことを躊躇った。
それから俺達はまた、神社巡りを再開した。
さっきのことが原因で俺が気落ちしたと知れば、香織まで傷つけることになる。そう思って俺は、それからは元気な姿を装って御朱印巡りを進めた。
凄い。だとか、きっと橘さんも喜ぶ、だとか。
そんな思ってもいない言葉を口にして、香織の顔は見れなかった。
多分、バレていただろう。
俺の全てが空元気なことは、香織に筒抜けだっただろう。
それでも、いつかのように憔悴して逃げ出すよりはマシだった。
自分は生きていると橘さんに嘘を吐いて、後に大泣きをかましたあの時は、惨めだった。
あんなことを繰り返したくはない。
それだけ……そんな哀れなプライドだけで俺は、香織の隣を笑顔で歩いた。
ようやく、今日の神社巡りも終わりが見えた。
最後にやってきた神社は……。
「いやあ、久々に来たよ」
いつか橘さんとも初詣でやってきた近所の神社。
そして、親子死傷事件の現場でもある場所だ。
快活に微笑む香織は、懐かしそうに境内を歩いた。
「御朱印の受付、四時半までみたいだから先に済ませようか」
俺は言った。
「うん。最後が近所だなんて、何だか面白いチョイスね」
「すぐ行けるからこそ、滅多に行かなくなったりするし。御朱印集め初日に行っておこうと思ったんだ」
「ふうん。そっか」
……さっきまで落ち込んでいた俺だったが、今は使命感で緊張していた。
ここは、伊織の巻き込まれた事件の鍵になるかもしれない場所。
そこに今、俺は香織と二人でいる。
授与所で御朱印帳を渡して、俺達は待ち時間はお参りなどで時間を潰そうと本殿の方へ歩いた。
玉砂利を歩き、俺達は賽銭箱の方へ向かった。
……人によるが、玉砂利の上を歩かない方が良いと言う人がいるが、どうやらこれは諸説あるらしい。むしろ、玉砂利の上を歩き、石を踏む感触、鳴る音を聞くことで心が洗われると考える説もあるそうで、推奨する人もいるそうだ。
意外と神社に詳しい香織が、その辺を教えてくれた。
ただそんな言葉も深く理解することは叶わなかった。
ネットニュースの動画から見た、見覚えのある木が俺の目に飛び込んだ。
境内の中でも一番大きなあの木の下の傍で、死傷事件の被害者は見つかったそうだ。
ただ、もう一年前の話。
そこにかつての悲惨な出来事の痕跡は残されていなかった。
「何やってるの? 行きましょう」
香織は、木に目を向ける俺を不可解と思ったのか、首を傾げて呼んできた。
……その時、俺は確信した。
ここが、伊織の身に起きた事件と関係があるのか。ないのか。
賽銭箱にお金を投げて、二礼二拍手一礼。
手を合わせて、願い事。
……ただ、感情がゴチャゴチャ混ざっている今は、ロクな願い事は浮かんでこなかった。
目を開けると、香織は俺の顔を見て微笑んでいた。
「……伊織、覚えている?」
授与所の方に戻りながら、香織は話してきた。
「いつかあたし、言ったじゃない。……あなたとしたいこと、いっぱいあったの」
「……うん」
「ありがとう。また一つ、君はあたしの夢を叶えてくれた」
いつもより優しく、悲しそうな声だった。
香織の方を見るのは、少し怖かった。
でも俺は怖いものみたさで、つい香織の方を振り返ってしまったのだ。
……香織の笑みは。
『いつか、また会おうね』
いつかの笑みと、重なった。