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準備万端!

 合唱コンクール、橘さんの指導のおかげでいつもよりも大きな声で歌うことが出来た。

 御朱印集め、橘さんとお揃いの御朱印帳を買った。


 たった数ヶ月。

 色々なことがあった。


 この身で……伊織の体で目を覚ました時は、そろそろ夏が始まりそうなそんな季節。それから、公園への監視カメラの設置。勉強。アルバイト。


 そして、俺の身が死んだことを知り……。


 泣いて、笑って、支えられて。


 俺は、今を生きる。

 伊織としての、今を生きる。


 伊織の身に起きた事件を調べながら、考えることがある。

 どうして俺は、伊織になってしまったのか。

 どうして神は、人の定めである死を遂げた俺を、もう一度別人の体にあてがってまで生きさせたのか。


 色んな経験を経てきた。

 それはこの体だけの話ではない。自分の体で生きた時も含めて、気付いたことがある。


 それは、物事にはそう成った理由がある、ということ。

 意味のないことなんてないってこと。


 であれば一体俺は、どうしてこの身で今も生きているのだろうか?


 答えは未だ、出ていない。


 ただ俺は、いつか夢見たことを果たす機会に恵まれた。

 いつか俺は思った。

 あれは高校生一年の時、俺は香織という恋人に恵まれ、様々な体験をさせてもらった。


 そして、俺達は別れた。


 香織と別れたのは、ただの成り行きだった。そうして俺は、その成り行きのせいで後悔をした。


 もう、香織と会うことはないと思った。

 一生を共にする伴侶を見つけた香織と……再会し、また愛を育むことはないと思った。笑い合うことはないと思った。


 ……愛は、もう育むことは叶わない。


『いつか、また会おうね』


 でも、どんな成り行きか俺はまた……香織と笑い合う機会に恵まれた。


 そうして俺は、二度と叶わないと思った夢をまた一つ、叶わせることが出来るのだ。


「おはよう。母さん」


 今日は、俺と香織のデートの日。

 三連休の中日の外は、俺達のお出掛けを盛大に祝すように、雲ひとつない快晴だった。


「今日はエスコートよろしくね、伊織」


「うん」


 もう香織は、俺の名前を呼ぶことはない。

 その事実は変わらない。

 俺の世界は変わった。

 今俺の見る世界は、伊織の世界。斎藤伊織の世界なんだ。


 その事実に凹み、自傷行為を図ろうとしたこともある。


 でも、色んなことを経て、今ではこの世界も悪くないと思い始めている。

 でも……だからこそ俺は、伊織の身に何があったのか、知らないといけないんだと思う。


 神がどうして俺に伊織としての人生を与えたのかはわからない。


 でも神は、何か意味があって俺を伊織にしたんだと思う。


 きっと俺は……それも、知らないといけないんだろう。


 そしてそれを知っていくにはまず、今日は前哨戦だった。


「で、今日は何をするの?」


「御朱印集めに行こう。母さん」

 

 この日まで、今日どこに行くか。何をするか。

 香織にはずっと伏せていた。


 今ようやく、俺は橘さんとお揃いの御朱印帳を香織に見せた。


 香織は、俺がそんなことを提案してくると思っていなかったのか、目を丸くした。


 ただまもなく、微笑んだ。


「じゃああたしも、御朱印帳を買わなきゃね」


 その香織の微笑みは、


『いつか、また会おうね』


 俺との別れを迎えたあの日……俺に見せた笑みとはまるで違う……優しい、優しい微笑みだった。


 ……不思議だった。


 前までなら香織の知らない顔を見る度、胸が痛かった。

 苦しかった。

 泣きたいくらい、辛かった。


 でも今は、知らない香織の顔を知れて、良かったと思った。

 俺は微笑んでいた。


 ……成人の日の三連休。

 俺は橘さんと地元に向かった。

 香織の命により午前中は観光に向かった。

 俺がかつて勤めた企業は更地になっていた。

 俺がかつて住んでいたアパートには別の人が住んでいた。


 そして、俺は死んでいた。


 あの日見て、思って、泣いたことは……多分一生忘れることは出来ないだろう。


 正真正銘、あの時が俺の死んだ時だったんだと思う。

 俺が、俺の死を自覚して。


 そうして、橘さんの胸で年甲斐にもなく大泣きして……。




 橘さんの言葉で俺は、俺の眠る墓に手を合わせた。




 あの時、もし手を合わせなかったら、こんな気持ちにはなれなかったかもしれない。

 俺は未だ、過去の俺に囚われて、醜く愚かに、香織にまつわることで嫉妬を繰り返していたかもしれない。


 香織の知らない笑みを見て、俺は微笑むことが出来た。


 それは、俺が俺ではなく、伊織としての人生を歩み始めた証拠だろう。


 元恋人ではなく、母に。


 俺の世界が変貌したように、俺と香織の関係もまた、変わろうとしているのだ。


 あの日、俺の眠る墓に手を合わせられたから……。


『あたしがいる』


 橘さんの、おかげだな。


「伊織。あなた今、美玲ちゃんのこと考えているでしょう?」


「……よくわかったね」


「あなたのことだからね」


 橘さんの母親が言っていた言葉を俺は思い出した。


『あら、あたしはことあの子に関してだけは世界一の名医よ?』


 親が子を理解出来る理屈。

 血なのか。理屈じゃないのか。


 俺にはまだ、それは理解出来ない。


「そろそろ行こうか、母さん」


 多分俺はこれから、ようやく本当の意味で香織と親子になるのだろう。

合唱コンクールをカット!

御朱印帳購入デートをカット!

バレンタインデーもカット!

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― 新着の感想 ―
[一言] あなたのことだからね、、、 今の伊織のことなのか前の伊織から含めてのことなのか。香織との関係にせつなさがある
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