電話
数度のコールの後、香織との電話は繋がった。
「もしもし?」
『もしもーし。どうしたの?』
電話から聞こえた香織の声は、いつもと変わらなかった。いつも通りの、お茶目な声だった。
「今日、橘さんの家で泊まることになった。その連絡」
『えーっ、何よそれ。何よそれー』
大層嬉しそうな香織の声。
俺はスマホから耳を話した。
「うるさい。近所迷惑だぞ」
『誰のせいよ。もうもう。このこのぉ! 無計画にしちゃ駄目よ? まだあなた、責任取れないんだからねっ!』
「するか。妹の優香ちゃんもいるんだぞ」
『あー、優香ちゃん。でもまだ保育園生なんでしょ? じゃあ、夜は長いわね、きゃっ』
……いつになくテンションが高い。
「お酒、呑んでるの?」
『そうね、そうよー?』
ケラケラと笑い声が飛んできた。
家で、香織がお酒を呑んでいる姿を見たことはあまりない。元々、週に二回は自宅で食べないから知らないだけか。
……外で、誰かと呑んでいるのか?
そう尋ねることは出来なかった。
『そう言えばあなた、デートでどこに行くか決めたの?』
「……まだ」
『じゃあ、いつ行くかは?』
「決めてないけど。……まあ、俺の休みのこととか考えたら春休みになる……三月末じゃない?」
『あー、三月末は駄目。予定があるの』
予定。
それが何かを聞いたら、教えてくれるのだろうか?
「じゃあ、三月中旬。春分の日の三連休の、中日とか。日帰りでさ」
『わかった。じゃあそうしよう!』
「じゃあ……その、あんまり呑み過ぎないようにね。介抱してくれる人がいるなら、別だけど」
『アハハ。傍にそんな人がいたらねー。伊織、帰ってきて面倒見てよー』
少し、体が熱くなったのがわかった。
今香織は一人でお酒を呑んでいる。それだけの事実が、これ程嬉しいだなんて。
「ごめん。明日は休みだから、二日酔いの時は介抱する。それで勘弁してくれない?」
『仕方ないなあ。じゃあ、バッチリ酔って甘えちゃうね』
「馬鹿言え」
俺は苦笑した。
そんな感じで手短に香織に連絡を済ませて、俺はリビングに戻った。
扉を開けた途端、香ばしい香りが鼻孔をくすぐった。
さっきまでゲーム画面が映っていたテレビは消えていた。
「ご飯出来たよ」
「うん」
既に、机の上には三人分の食事。
優香ちゃんは楽しそうに席に座っていた。
橘さんの隣に、俺は腰を落とした。
「……何か良いことあった?」
「そんなこと。……強いて言うなら、君の家に泊まれることくらいかな」
ご機嫌な俺は冗談をかました。
「……馬鹿」
橘さんは、頬を染めていた。
テレビのない静かな空間での三人での食事は、この前よりもたくさんの笑い声が響く食事となった。
ご飯を食べ終えて、俺が食器洗いをしている内に、橘さんと優香ちゃんは風呂に向かった。
「覗かないでよ」
「覗かないでよー」
どこまで本気なのか、二人にそんなことを言われた。
「しないっちゅーの」
俺は、苦笑しながら答えた。
……家庭を持つ、というのはこういうことなんだろうか。
会話をしているだけで温かい気持ちになれて、茶化し合って微笑みあって。
そうして、支え合って。
この胸の温もりを、自分として受けることが出来なかったことには後悔が残る。
でも、それより悔しいことは……唐突にそれを奪われた人が、俺の傍にいるという事実。
伊織と、そして香織の夫。
二人は一体、どんな事件に巻き込まれたのか。
二人は本当に、近所の神社の死傷事件の被害者なのだろうか。
早く、調べたい欲求が、俺に芽生え始めていた。
……ただ、これからはどうやって調べて行けばいいのか。
ここまで俺の調査が難航している理由は、物理的に時間がないことも大きな要因の一つだが……ネットニュース、匿名掲示板、専門誌での調査が非効率的なことも一因だ。
だとしたらそれ以外、それこそ現場検証をするとか、方向性を変える必要があるのではないだろうか。
ただ、この前地元に戻り一泊し財布事情が厳しい現状を鑑みたら、神社巡りする金だって惜しい。
『そう言えばあなた、デートでどこに行くか決めたの?』
……思えば、このデートを伊織の身に何が起きたか探る手段にしないのは、勿体ないのではないか?
恐らくその日のお出掛けの費用は、香織が全て出してくれる。それを宛にして神社巡りするのは、有効な手段ではないか。
ただ、問題は残る。
それは、香織が俺に徹底的な箝口令を敷いていること。
俺がデートに向かう場所を神社にばかり設定したら、当然香織も疑問を抱くだろう。
どうして、神社にばかり巡るの、と。
神社に巡る正当な理由が、何かほしい。
何か、ないだろうか。
……俺は、今橘さんの家にいるからこそ、思いついたことが一つあった。
「さっぱりした。あんたもお風呂、入ってきたら?」
橘さん達はドライヤー片手にリビングに戻ってきた。
二人の髪は濡れている。リビングでテレビでも見ながら乾かすのだろう。
「……ねえ、橘さん」
「何?」
「今度、一緒に御朱印集めに行かない?」
賽銭泥棒のあった神社巡りをするに、香織を誤魔化す方法は……。
思い出したのは、初詣に橘さんと神社に行き、御朱印をもらったことだった。
御朱印集め。
あれなら、神社巡りをする理由付けにはもってこいだ。
「何よ、藪から棒に」
ドライヤーの音がリビングに響いた。
「……御朱印集めしたいんだ。君、お正月に集めていたじゃないか」
「そうだけど」
「駄目かな?」
「……駄目とは言ってないでしょ」
「ありがとう」
一つ、現状を好転させる手立てを見つけた気がして、俺は安堵していた。