音痴
合唱コンクールを来週に控えた日の放課後。
俺達クラスは最近ではすっかりお馴染みになった合唱練習に繰り出していた。体を動かしたがりな今どきの若者にとって、この時間は大層退屈だっただろうが、強制的な練習であれば致し方ない。
皆のモチベーションは、相変わらず低い。
ただ俺は、こうして皆と一緒に何かしらの行事をこなすことに喜びみたいなものを覚えていた。所謂、青春を数十年ぶりに味わって、かつてを思い出したり、あの時出来なかったことをしてみたり、貴重な体験をさせてもらった。
ただそれよりも一番、俺にモチベーションが伴った理由は、きっと前より音痴がマシになったからだろう。
「どうだったかな」
練習終わり、気だるそうに音楽室を後にする皆を見送って、俺はピアノの前に佇む橘さんに尋ねた。
「……え? ああうん。どんどん上手くなっていくね」
「そう? 君にそう言ってもらえると、素直に嬉しいよ」
「そう。良かった」
橘さんは微笑んだ。見慣れた微笑みだ。でも、どこかその笑みに陰のようなものを感じるのは気のせいか。
あの日……発熱した日以降の橘さんは、ずっとこんな感じだ。
何か、悩んでいることでもあるのだろうか。
家庭の問題。もしくは学校生活、色恋沙汰。
色々それっぽいことを連想するが、今の橘さんにしっくり来るかと言うと、そうでもない。
聞いた方が良いのだろうか。
橘さんにはいつも、俺の悩みを聞いてきてもらった。だから、こんな時くらい彼女の悩みを聞いた方がいいのかもしれない。
「ねえ、橘さん」
「帰ろうか」
意を決した俺だったが、橘さんに遮られてしまった。
帰ろう。
もうすっかり、俺達が一緒に帰るのは恒例行事になった。
「うん」
だから、断る理由はなかった。
教室にカバンを取りに戻って、俺達は帰宅した。
電車の中、俺はスマホを操作しながら橘さんの様子を気にしていた。
橘さんもまた足を組みスマホをいじっているが、どこか上の空だ。
「ねえ、橘さん」
「何? ……そう言えば、あんた勉強は大丈夫なの?」
「え? ……ああ、ぼちぼちかな」
「まあ、中身三十五歳だもんね。でも、もしわからないところとか有ったら教えてよ。教えるから」
「……うん」
最近の橘さんは、ずっとこうだ。
俺が話しかけると、突然気になることでも生まれたように何かしらを尋ねてくる。
何だかまるで、俺に触れてほしくない話があるような、そんな素振りに見えた。
きっと今の橘さんは、どうしてそんな様子なのかを尋ねても教えてくれることはないだろう。話したく、ないのだろう。
少しだけ悲しかった。
色々相談してきた彼女に隠し事があることが、悲しかった。
橘さんはどうだったのだろう。
俺が秘密を抱えていたことを、多分彼女はとっくの昔に気付いていた。
そしてそれを、聞きたがっている素振りもたまに見せた。
でも、俺は結局……数ヶ月経って初めて、俺の秘密を彼女に話した。
知りたかっただろう。
隠されたくなかっただろう。
それでも橘さんは、俺が語るまで、触れずにいてくれた。
……ならば俺も、彼女が話してくれるのを待つべきなんだろう。
「……合唱コンクール、いよいよ来週だね」
「そうね」
橘さんは少しの間を開けて返事をした。
「君のおかげで、今回は初めてちゃんと合唱を歌えそうだ」
「二十年前は、歌えなかったんだ」
「うん。恥ずかしかったんだよ。……君がいなかったら俺は、ずっと人前で歌うことは出来なかっただろうね」
「そんな、大層なことはしてない」
「そんなことはないさ。……君はいつも、俺が一人では向き合えない時、手助けをしてくれる。一体、どれだけ俺は君に救ってもらっただろうね」
「……止めてよ」
橘さんの声色は、本当に嫌がっているように聞こえた。
「あたしはそんな……そんなこと、してない」
「……そっか」
これ以上は何も言わない方がいい。
俺はそう判断した。
電車はまもなく、俺の自宅の最寄り駅を超えて、橘さんの家の最寄り駅に差し掛かろうとしていた。
「……ねえ、今日さ。お父さんもお母さんも帰ってこないの」
電車を降りた時、橘さんが言った。
「何かあったの?」
「二人とも泊まりの出張。だから今日、家にはあたしと優香の二人しかいない」
橘さんが何を言いたいか、わからなかった。
「今日、ウチに泊まって行かない?」
「……え」
それは、頷いていいのだろうか。
「べ、別に誘っているわけじゃない。いつかみたいに、そんな気があるわけじゃない。ただ……ただ」
橘さんは口ごもった。
俺は、橘さんの言葉を待った。
「ただ、あなたに傍にいてほしい。それだけなの」
……橘さんの傍にいるということは、また俺は今日も死傷事件についての調査をすることが出来ないことを意味する。
俺の身の安否を探る時は、手掛かりが少ないから、取っ掛かりがないから十ヶ月近い時間を要した。
でも今回は、わかりやすい手掛かりが目の前に転がっている。
なのに、進まない。半月近い時間、結局俺はまともに調査を出来ていないのだ。
人間関係が複雑になるほど、物事は上手く進まなくなる。
社会人時代にも経験したその事実を、俺はまた再確認していた。
早く、伊織の身に何があったのかを知りたい。
そうは、思う。
「いいよ。わかった」
でも、憔悴気味の橘さんを放っておけるはずがない。
一体俺は、どれだけ橘さんにお世話になったことか。
その恩を少しでも返すため、俺は橘さんの家で今日泊まる。
……本当に、それだけなのだろうか?
自分の気持ち一つ、俺は今理解に苦しんでいた。
そんな俺にはきっと、今橘さんが何に悩んでいるかなど、知れるはずもないのだろう。