気まずい
橘さん宅の食事を終えるまでにそこまで時間はかからなかった。いつもより、不思議と食事は進んだ気がした。随分通い詰めたにも関わらず、たった一人初対面の人がいるだけで、この家は俺の知らない家になっていた。だから、それなりに居た堪れない気持ちになっていた。
「ごちそうさまでした」
俺は橘さん達よりひと足早く夕飯を食べ終えた。いつも通り、自分が使った食器をシンクへ持って歩いた。
「置いておいて。後で洗っておく」
橘さんが言った。
「その時は俺も手伝うよ。ご飯、ごちそうになったんだから」
「いい。やっておくから」
「いやでも、君病人だろう?」
「……そうだけど」
珍しく橘さんが口ごもった。
いつもなら頑なな態度は崩さないのに。やはりそれなりに、体調が悪いことは影響がありそうだ。
「……あなた達、見せつけすぎじゃない?」
驚いた顔をしていたのは橘さんのお母さん。
「そう? いつもだよ」
既に俺達の押し問答に慣れてしまったのは、優香ちゃん。
橘さんは雑炊を食べる手を止めて、俺を上目遣いに睨んでいた。
あんたが悪い。
そう言いたいように見えた。
俺は、自分の食器を水につけて席に戻った。腰を落とすと、向かいに座る二人にバレないように隣に座る橘さんに肘鉄を食らった。
ごめん。
俺は、心の中で謝った。
しばらく俺は席に座りながらぼんやりとした時間を過ごした。
三人がご飯を食べ終わるまで、暇になった。テレビを見ていると橘さんの怒りを買いそうだし、この家に俺のフリースペースは実質ないし、ここにいるしかなかった。
なんだか急かしているようで申し訳ないな、と思った。
「借りてきた猫みたいになってる」
橘さんに言われた。
俺は目で反論した。お行儀良くするためにテレビも見れず、ぼんやり座っているしかなかっただけだ。それは橘さんの発言に対する文句にはなっていないと気づいた。
それにしても、行儀よくという割に会話は自由なのか。
俺がご飯を食べ終わる前から活発な談笑が飛び交っていた食卓をよく鑑みれば、すぐに気付けそうなもんだったが、注意散漫になっているらしい。
「伊織君って、そう言えば萌奈美の古書店でバイトしてるんだったわよね」
「そうですね。とてもお世話になってます」
「いやいや、お世話になってるのはあの子でしょ。あの子も美玲と同じように……ああいや、違ったベクトルで偏屈だから」
「あたし、偏屈なんかじゃないんだけど?」
いやそれはない。
「年季のある古書店でしょ。あそこ」
「えぇまあ、そうですね」
真意を計りかねる言葉に、俺は曖昧に相槌を打った。
「あそこ、元々はあの子の父親のお店だったの」
「……へえ、そうだったんですか」
「えぇ、小さい頃からあたしも、そして美玲も。よく通ってた。まあ、美玲は未だにしょっちゅう通ってみるみたいだけど」
「そうだったんですか」
「あの子の父親が亡くなったのは、大体四年前だった。寒い日だったわ、今でも思い出す。……まあ、人が亡くなるとその人の遺品整理とか色々あるじゃない。それで色々いざこざも生まれたんだけど、一番面倒だったのはあの古書店の存続だった。古書店が入ってるビルも古くなってきているし、採算もそこまで。誰もあそこを、欲しがる人はいなかった。
でも、一人あそこを継ぎたいって言い出したのが、当時大学生の萌奈美。あの子ったら、卒業間近の大学も中退して、古書店経営を始めたの。当時はあの子のお母さん、ヒイヒイ言ってたわ」
「それは、何だかあの人らしいですね……」
「……元々、本が好きだったのもあるんだろうけどね。でも一番は、あそこがあの子にとっての故郷だったんじゃないかな。あの子はその懐かしい風景を手放すことが出来なかった。だから未だに、男の一人も作らずあそこに居続ける。それが正しいのかはわからない。
でも時々、羨ましくもあるし、激励したくもなる」
「……そうですね」
「ありがとう。あの子の居場所を守ってくれて」
橘さんのお母さんは微笑んだ。
「あなたのおかげで美玲も優香も、萌奈美も。皆、上手くいっている。だから、ありがとう」
お礼を言われるようなことをした覚えは一度もない。
優香ちゃんは俺がいなくても、橘さんがいれば寂しさを紛らわせることが出来ただろう。
高山さんも、そもそも俺がいなくても古書店の経営はギリギリ賄えていた。
そして、橘さんも……。
だから多分、彼女らが今順風満帆なのだとしたら、それは俺のおかげではなく彼女らの努力の成果だ。だからきっと、俺がそれでお礼を言われるのはお門違い。
でも、向き合う勇気を振り絞って起こしたたくさんの行為が……こうしてお礼と成って戻ってくる。
それは、何ものにも代えがたい幸福だった。
俺がしてきた行為は無駄ではなかった。
俺がしてきた行為は、誰かの救いになった。
それがあくまで要因であり主因ではないとわかっていても……嬉しいことには違いなかった。
俺は、照れくさそうに苦笑した。