母親
古書店の経理のアルバイト終わり、俺はコンビニでゼリーやスポーツドリンクを買って橘さん宅に向かった。今更思えば、橘さんも一人暮らしをしているわけでもないし、こんな物家にあっただろうが、橘さんを不安に思うあまり手ぶらでは行けなかった。
いつもなら仕事疲れで重い体を引きずるように橘さんの家に行くのに、今日は足取り早く彼女の家に向かっていた。
頭の中に巡っていた考えは、他人に吐露出来るようなものは少なかった。
橘さんの家にたどり着いたのは、それからまもなくだった。
息を整えながら、俺はチャイムを鳴らした。
『はい。どちら様でしょうか?』
知らない声の女性が応対に応じた。
一瞬、家を間違えたかと思ったが、見上げた家は見慣れた家だ。
「あの、橘さん……美玲さんの同級生の斎藤と言うものです。お見舞いに伺わせて頂きました」
なるべく丁寧に、俺は言った。
優香ちゃんでも橘さんでもないこの声の主は、恐らく……。
『あら、あなたが伊織君? ウチの娘から話は伺ってますよ?』
まさかの下の名前呼び。
橘さんは一体、家では俺のことをどんな風に話しているんだ?
呆気に取られていると、チャイムの向こうと家の中からドタドタと暴れ馬のような足音が聞こえた。
『ちょっとお母さん! ……来たの?』
橘さんだった。
「あ、うん。体調はどう?」
『……別に』
『ちょっと美玲。伊織君になんて口を聞いてるの』
元気な母親だこと。
寡黙な橘さんとは正反対だ。
……そう言えば橘さんがいつか話してくれた話によると、彼女の父は滅多に泣かないような感情表現が豊かではない人のようだ。
そっちの遺伝か?
そんなことを思うのは、失礼だったか。
「元気そうで良かったよ。今日学校休んだから、心配してたんだ」
『あっそ』
「本当、心配してたんだよ。……この前、連れ回したせいかな、とかさ。でも本当、元気そうで良かった」
心から思ったセリフだったのだが、
『お、親の前でこの前の話は止めて』
橘さんの声は、今日一番必死な感情が籠もった。
「え? ……あ」
そう言えば橘さん、ホテルの一室で泊まりになることを親に伝える時、友達の家に泊まることになったと嘘を言っていた。
『あらー? この前っていつのこと?』
橘さんのお母さんの声は、踊っていた。
何だか香織に似ているなあと、俺はぼんやりと思っていた。他人事に捉えるべきではないのかもしれない。
『伊織君。夕飯は食べたの? どうせなら、ウチで食べない?』
「えっ……いやでも、ご迷惑でしょう?」
『全然。優香も伊織が来たって後ろで喜んでるもの』
伊織ー、とインターホン越しに声が聞こえた。
もう橘さんの声は聞こえなかった。居た堪れなくなったのだろう。その様は容易に想像出来る。
「それでは、お言葉に甘えて」
ここで橘さん宅に上がることを決心したのは、これだけ橘さんにお世話になったのだから、礼の一つくらいするべきだと、ずっと前から思っていたためだった。
扉が開いた。
「こんばんは」
俺は、出向かえてくれた橘さんの母と優香ちゃんに頭を下げた。
嬉しそうにお辞儀したのは橘さんのお母さん。
そして、俺に飛び込んできたのは優香ちゃんだった。
「伊織。今日の夕飯はハンバーグだよ」
「そっか。美味しそうだね」
「あらあら、初対面って感じじゃないのね」
「はい。あの……たまに、お邪魔させて頂いていました。ご挨拶が遅れてすみません」
俺は頭を下げた。
「いいえ、あなたのしてくれた数々は二人から聞いているもの。むしろこちらこそ、ありがとう。あたし達が中々家に帰れないから、娘二人には寂しい想いをたくさんさせてきてね。あなたにはたくさん、助けてもらった」
「そんな……むしろいつも俺の方が、橘さんにお世話になってばかりで」
……そう言えば、橘さんはどこにいるのだろうか。
扉の向こうを覗き見るが、橘さんの姿は見えない。
「とりあえず上がって。あの子は多分、しばらく部屋のお掃除をするでしょうから。動けるようになっていたし、本当は玄関先で済ませるつもりだったんでしょうねえ。……だから、その後、部屋に遊びに行ってあげて」
「掃除?」
橘さんの部屋、そんなに汚れているのだろうか。
何だかイメージがないし、時たま入らせてもらった時にも清潔感のある印象しか感じなかった。
熱を出してしまったから数日掃除をサボってしまったのか。
いやでも、発熱したのは昨日の夜から出しなあ。
「変な部屋を見せたくないのよ。あの子意地っ張りだもの。特に、あなたに対しては」
「俺に対しては?」
どうして?
首を傾げていると、優香ちゃんが俺の袖を引っ張った。
「伊織。寒い。早く家に入ろう?」
「あ、うん。そうだね」
俺は橘さん一家に迎えられて家に入った。
ちなみに、橘さんのお父さんは今日も残業らしい。