不調
妙にやる気滾る橘さんによる俺への合唱指導はその日の内に始まった。
まずは音痴な俺に音を覚えろ、という意味で音階に合わせた発声練習。
ポロン、と奏でられた音階に喉を絞って音を合わせた。
ここまでは橘さんは文句をつけることはなかった。どうやら合っていたらしい。
「じゃあ、伴奏するから歌ってみて」
先程既に結構聞いた前奏が奏でられた。
「明日を、探そー」
「ストップ」
ワンフレーズ目で止められた。
「……さっきよりは良くなってる」
橘さんはそう前置きをした。
そうか? それが俺の感想だった。ふざけたわけじゃない。何が変わったのか、わからなかっただけだ。
まあ、橘さんが気を遣って発言をしているのは明白だった。
「でもまだ、音外してる」
「そっか」
まあ音階に合わせて発声練習しただけで歌えるようになるなら、とっくの昔に俺は音痴なんて克服しているだろう。
「どうすればいいかな?」
「地道な反復練習しかない」
「そっか……」
合唱コンクールは来月初め。果たしてそこまでに音痴を克服することは出来るのだろうか。
「……あんたにとったら、辛い練習になるかもしれない。音痴なことに向き合うのも辛いだろうし、中々上達しなかった時には二重で苦しむ」
先に語っておくが、前回の勉強会の時の橘さんはもっとハードワーカーを強いる、まさしく鬼軍曹だった。
なのに今は、まるで牙を抜かれた虎だ。
優しく厳しいのが彼女だったのに……。これでは優しくて優しいになってしまう。
「まあ、やるしかないよね」
面倒臭さがないかと言えば嘘になる。合唱練習より先に、俺には知りたいことがある。
でも、大事な学校行事を疎かにしてまで強行しようとは思わない。
「……いいの?」
橘さんは、自分で言ったにも関わらず心底意外そうに俺を見た。
「昔から歌は苦手だった。カラオケには行かないようにしたし、もし行っても歌わないようにしてた。でも、そんな自分に対して嫌悪感がなかったわけじゃないんだ。出来ないことを出来ないままにして、世界が広がらないのは、勿体ない気がしてた」
前の……高校生くらいまでの俺なら思えなかった考え方。
そんな考え方を俺が出来るようになったのは……良いことばかりではない世界の不条理さを知ったから。
社会人経験を経て、苦難の先にあるものを知ったから。
そして……。
「それに、橘さんが見てくれるんでしょ?」
橘さんがいてくれる。
俺の隣にいてくれる。
俺と一緒に苦難に立ち向かってくれる人が、傍にいる。
それだけで俺は、どんな苦難にも向き合っていける気がしていた。
「……いつかあたしが言ったこと、覚えてる?」
橘さんは照れるでもなく目を逸らすでもなく、辛そうに俯いていた。
「あんたは、あたしなんかより……よっぽど、強いよ」
改まってそんなことを言われると思ってなかった俺は、返事に困った。
「それはありがとう……なのかな?」
一度お礼を言ってみたもののしっくり来ず、照れ隠しのように俺は笑った。
茶化してこの場を終わらせたかった俺だが、相変わらず橘さんが俯いている姿を見て違和感を覚えた。
「大丈夫?」
「大丈夫……じゃないかも」
橘さんは明らかに顔色が悪かった。
「今日はもう帰ろう」
思えば一昨日、橘さんは極寒の地に誰かの付き添いで行っていた。一日明けて体調が崩れたのかもしれない。
寒暖差が大きいと、頭痛になりやすいというし。
「送ってくよ。歩ける?」
「うん……」
足元が覚束ない橘さんの手を引き、俺は帰路についた。
道中橘さんは、ずっと体調が悪そうに俯いていた。
家に送り届けると、優しい顔でありがとう、とお礼を言われた。
翌日、橘さんは学校を休んだ。発熱を訴えたそうだ。