明日を探そう
直訳して『明日を探そう』。
菅生先生の独断と偏見で選ばれた俺達クラスの合唱曲は、中学教材にも扱われる有名な合唱曲。歌詞を読めばわかるが、この曲はつまるところ、明日への夢に希望を抱き頑張れよ、と激励するような歌だ。
最近、元の体と死別した俺からしたら……元の身での明日を失った俺からしたら、若干皮肉めいたものを感じてしまうそんな曲だが、当然そんな事情を知る由もない菅生先生に他意はなかったのだろう。
俺達は菅生先生のスマホから流れるメロディーを聞きながら、まずは口ずさんでメロディーを覚えて、数十分後、歌いだそうとしていた。
「先生」
そんな中挙手をしたのは、橘さん。積極的に発言する彼女は、実は結構珍しい。
「何だ?」
「中学時代もこれ弾いたし、あたしもう弾けます。指揮者も合わせてそっちも始めた方がいいと思います」
菅生先生は目を輝かせた。
「マジ? そうしようそうしよう。……いやー、童心を思い出したくてこの曲に決めたけど、中学時代に橘が弾いたことがあったなら大正解だったな」
そんな理由でこの曲を選定したのか。
まあ、自発的にあれ歌いたい。これ歌いたいと言うようなクラスメイトはいないし、多少の特権も問題はないのだが。
橘さんがピアノの方へ歩き、音楽経験者の廣田君は皆の前に立った。
廣田君と橘さんは弾き出しを合せるためにアイコンタクトを取っていた。
その時、チクリと胸の奥が痛いと思ったのは気のせいか。
橘さんはもう弾ける、と宣言したが……その通り、丁寧に綺麗な伴奏が音楽室に響き始めた。
優香ちゃんがいたから遊ぶことが出来なかった。そのことが苦痛だった。いつか橘さんはそんなことを言っていた。だから意外だった。ピアノの習い事なんて、一体いつやっていたのだろう、と。
ただ思えば……優香ちゃんと橘さんは十歳近く年齢が離れている。小学校低学年の頃に、きっと習ったんだろう。
橘さんのとことんな性格を考えるとピアノはもう止めていると思われる。ただ、数年前に習ったそれにしては、橘さんの伴奏はうまいと思わされた。勿論、素人目だ。
「おー、いいじゃんいいじゃん」
脇で聞いていた菅生先生が恍惚とした顔で拍手をしていた。
様になっている姿を見れて、どうやら満足したらしい。まだまだ発展途上だと思われるのだが……。
しばらく、俺達はそんな調子で合唱練習を続けた。
合唱コンクールの練習期間中は、わざわざ部活動の開始も一時間遅らせるそうだ。ただ終了時刻は変わらないそうで、一部界隈ではブーイングの嵐だそうだが、とにかくそんな事情で、俺達はタイムリミットが原因で今日の練習を終えた。
部活。
帰宅。
思い思いの道へ、クラスメイト達は進んでいく。
「橘さん」
そんな中で俺は、合唱練習がようやく終わったことを喜びながら橘さんに近づいた。
話したいことがあった。
無論それは、あの神社で起きた死傷事件について。
「ちょっと、いい?」
「いいけど、まずはさっきの練習のことで言いたいことがある」
「え?」
話の腰を折られて、俺は変な声を上げた。
もしかして橘さん、音楽にはうるさい人なんだろうか?
「あんた、もっと大きな声出しなさいよ」
「えぇと……そうだね、ごめん」
「音程取るの、苦手だったりするの?」
ギクリ。
俺は顔に出さないように、俯いた。
実を言うと、俺は昔から音痴だった。周りの邪魔をしないように、合唱の場では小さな声で、時には口パクで誤魔化すことを繰り返してきていた。今日もそうだ。
合唱練習が終わったことが嬉しいと思ったのは、橘さんに気付いたことを伝えられるのもそうだが、苦痛な時間が終わったことも大きな要因の一つだった。
それにしても、まさかたった一度で見抜かれるとは。
「特訓」
「で、でもさ……」
「ちゃんと向き合って」
「……はい」
向き合う勇気。
その言葉をしがらみのように感じたのは、今日が初めてだった。
橘さんに相談する空気ではなくなってしまった。
むしろこれから、いつかの勉強よろしく、橘さんの鬼軍曹が始まる。
俺は、少し項垂れた。