隣には
ホテルのチェックアウトの時間が迫っていたため鳴り響いた電話に、深刻そうな顔をして俯いていた俺達は飛び上がるくらいに驚いた。
すぐ出ますとだけ告げて、俺達はホテルをチェックアウトし外に出た。
「さむいぃぃ……」
先程までの深刻そうなムードはどこへやら。
橘さんはコートに手を突っ込んで縮こまりながら歩いていた。
行きに手渡していたマフラーを、俺はもう一度橘さんに渡すことにした。
「あったかいぃぃ……」
「君、ちょっとキャラ変わってるよ?」
ぬくぬくする毒気のない橘さんに、俺は呆れた顔で言った。
「あんたがここがこんなに寒いことを事前に教えてくれていたら、あたしもっと厚着してきたもん」
「それは、程々に申し訳ないと思ってる」
冷え性で寒がりの橘さんのためにも、早く駅構内に入って暖房が効いた場所に避難させたかった。
「ね。もう一回、あなたのお墓に寄らない?」
しかしそんな俺の気遣いも虚しく、橘さんはそんな提案をした。
「いや、もう帰ろう。風邪を引かせるわけにはいかない」
「大丈夫。あんたのマフラー、あったかいもん」
俺のマフラーを優しく触る橘さんに、ドキリとした。
「……あたし昨日、結局あんたの体に、手を合わせることが出来なかった」
「……それは」
「あんたもそう。昨日、あの場では現実を受け止めることが出来なかった。だから弔うことが出来なかった」
俺は俯いた。
「あんたはあたしがいる限りあんた。でも、他の人にはあんたはやっぱり……伊織になる。だから、向き合お?」
向き合う勇気。
目の前にいる誰かに教えられた、大切なこと。
俺の体の死と向き合うことはきっと……相応の覚悟と、恐怖を伴うだろう。
「……君が」
多分、俺一人では太刀打ち出来ないだろう。
「君が、隣にいるなら……行く」
情けなく、俺は不貞腐れる子供のように言った。
「うん。行こっ」
橘さんは無邪気に微笑んでいた。
甘えることは情けない。
そう思った自分が馬鹿らしいと思うくらい、とびきり綺麗な笑顔を彼女は浮かべていた。
バスの車内。
俺達はあまり人の乗っていないバスの最後尾を陣取って座っていた。
窓際に座る俺は、窓から外の景色を眺めていた。
昨日と、まったく同じ状況だ。
なのに、昨日に比べて俺の気持ちは重くなかった。昨日の俺はそれこそ、死ぬかもしれないギリギリのラインで戦っていた気がする。事実を知る恐怖と、不安が現実になるかもしれない恐怖と、真綿で首を締められる恐怖と。
色んな恐怖と戦って、殺されかけていたんだ。
一夜明けて、何が変わったのだろうか?
事実を知った。
……でも俺は気付いていた。
この期に及んで俺は……まだ、信じていた。
自分が生きていると。
自分がまだ、元の体に戻れると。
そう、信じていた。
そうして、少し考えて事実を思い出す。
まるで、いつかの香織との関係に似ていた。あの時の俺は、香織が結婚した事実を受け止めきれず、ふとした時にまだチャンスがあるのではと考え、そうして痛い目に遭っていた。
あの時と今は、まったく同じ状況だ。
なのに事実を思い出しても痛い目に遭うことがなかった。
いつものように、胸が締め付けられるような痛みを覚えなかったのだ。
劇的な変化があったかと言えば、そういうわけじゃない。
強いて言えば、そう……。
「ん?」
隣に、彼女がいる。
橘さんがいることくらい。
『あたしがいる』
そう言ってくれた橘さんがいるくらい。
そうか。
気付けば俺は、彼女にまた助けられていたんだな。
彼女の笑顔に。
彼女の存在に。
また、助けられていたんだ。
彼女のおかげで俺は今、平穏を保てていた。
俺はまた、彼女に深い恩義を感じた。
ただ内心に宿るこれが、恩義だけなのか……俺にはまだわからなかった。
バス停。
お墓。
墓石。
俺は、俺の体の眠るそこで手を合わせた。
線香と花の香りがしない墓参りなんて、生まれて初めてだった。
……俺は、ゆっくりと目を開けた。
隣では、まだ橘さんが手を合わせてくれていた。