食費
橘さんの髪にドライヤーをかけてあげながら、俺はさっきまで見ていた自分のスマホを彼女に手渡していた。スマホの画面に開かれているのは、家計簿アプリ。
そうして、俺が目覚める前後の支出。
丁寧に、俺は橘さんにそのアプリを見て俺が気付いたことを教えた。と言っても、そこから読み取れた内容はそこまで多くはない。
強いて言えば、
「菊の花(白) 二基」
その他だとか、面白みもない文字列の中に異彩を放つ、それくらい。
髪の毛が乾いた頃、ドライヤーを切った。
橘さんは不服そうに俺を見ていた。
「あんた、何か女の人の髪の毛乾かすの慣れてない?」
「えっ!?」
声が裏返った。
恋愛経験の少ない俺だが、大体のことは香織との交際期間中に経験させてもらった。あの人は生真面目であると同時に教え上手でもあった。
だから、丁寧に女の人の髪の毛の乾かし方をレクチャーしてくれた。
役に立つ機会はないよ、とか愚痴りながら、俺は香織に教えてもらった通りに丁寧に丁寧に髪の毛を乾かしたものだが、まさかこんな形でそれが生きようとは。
いや、生きたのか?
何なら自分の首を締めただけなような気もする。
「気の所為だよ」
「……いやらしい」
どうやら橘さんの反感を買ってしまったらしい。
一体何故だ。
「それより、どう? 何か気になることあった?」
俺は話をすり替えた。
これ以上この話題は、正直居た堪れなくて仕方がない。
「……あんた、あたしにスマホ見せていいの?」
「え、なんで?」
再び、話は脇道に逸れた。
「いやだって、スマホって個人情報の塊でしょ? あたしだって自分のを他人に見せるの、抵抗あるよ。それなのにそんな様子も一切見せず、よくあたしに見せたなって」
スマホもそうだが、よく考えれば家計簿情報なんて、余計に他人に見せるようなもんではない。
橘さんに言われて、俺はようやくそんな当たり前のことに気がついた。
でも、意外とその通りだからと橘さんからスマホを取り上げようという気にはならなかった。
「君ならいいよ」
「……あたしなら?」
「うん」
「……じゃあ、あたし以外の人には絶対見せないで」
「ん? ……まあ、わかった」
橘さんの意図はわからなかったが、それだけ言うとようやく橘さんは本題に入る気になったらしい。
こちらに振り向いて、橘さんはスマホを俺に渡した。
「あたしが気付いたのは、食費のこと」
「食費?」
橘さんは頷いた。
「三月から四月の間。……ほら、ここでガクンと食費が減っているじゃない」
橘さんは言いながら、家計簿アプリの画面をスライドさせた。
確かに、斎藤宅の食費は、去年の三月から四月の間に大幅に減少していることが見て取れた。
俺が見た時にはそんなこと、全く気付くことはなかった。どちらかと言えば俺は、そういう基本的な支出の内容よりも菊の花のようにその他の支出の内容にばかり気を取られていた。
伊織という少年に何かあるとすれば、特別な内容の支出になると高を括っていたのだ。
でも言われてみれば、確かに食費からも……いや、待てよ。
「節約したとかはないかな?」
斎藤宅の貯金周りは、去年の三月には横ばいくらいだったにも関わらず四月以降は好調だった。だとすれば、意図して食費を抑えるようにしたとか。
とにかく、意図的な原因を俺は探った。
「これは節約とかそんなレベルじゃない」
しかし橘さんは、俺の話をあっさりと一蹴した。
「これは……それこそ、男二人分の食費が浮いたくらいの金額」
……男二人。
俺に、雷に打たれたような衝撃が走っていた。
男二人。
よく考えればその内の一人は見当がつく。伊織だ。俺が伊織として目覚めたのは去年の五月頃。筋力の衰え方を考えれば、一月以上昏睡状態だったのは想像に難くなかった。
であれば、もう一人は……。
そちらも、見当がつく。
いや、それが正しいかはわからない。でも、思い当たる人は……たった一人しかいなかった。
そして、その人の顔が浮かんだ瞬間、俺の頭にちらついた文字列があった。
それは……。
『菊の花(白) 二基』
橘さんは俯いていた。
言っていいものか、それを悩んでいるように見えた。
「……香織さんの旦那さんが亡くなられた時期、あなた知ってる?」
恐る恐る、橘さんは俺に尋ねてきた。
俺は……首を横に振った。
「わからない」
でも……。
「でも、俺も今、同じことを考えていた」
三月から四月の間の食費の異常な差。
そして、二基の花。
「もしかしたら、あの花って……」
ゴクリ、と俺は息を呑んだ。喉元まで出た言葉は、一瞬飲み込まれたが、すぐにまた出てきた。
「一基は伊織の見舞い用。もう一つは……」
それ以上は、言えなかった。
信じ難くて、言えなかった。
でも、そうだと思ったらそうとしか思えなかった。
俺は堪えきれずに続けた。
「もう一つは、香織の旦那への供花」
もしかして……。
伊織が昏睡状態になったのと、香織の旦那の死別は、同じ時期に起きた出来事なのではないだろうか。
つまり……。
「伊織と香織の旦那は、同じ事件に巻き込まれた?」
皆の言いたいことはわかってる。
これは恋愛小説ではない(断言)