伊織
昨晩はあれ程地元を歩き回ったというのに、疲労は意外と残っていなかった。ただ、テレビを見ている気分にもならなかったからベッドに飛び込んだ。
うつ伏せに飛び込んだのだが、ベッドには俺以外、もう一つの匂いが残っていて……最近、よく隣にいる人の柔軟剤の香りを嗅いでいるといけないことをしている気分になっていた。
「いやまあ、いけないことしてるんだけどね」
いつもならここまで橘さんを意識することはない。
橘さんと俺は実年齢は二十歳も離れている。親と子のような関係だと思っていたのだ。
なのに今は、耳をすませば聞こえてくるシャワーの音にも意識を囚われてしまう。
「いかんいかん。これでは変態のようではないか」
いつにもまして饒舌な口に気付くこともなく、俺はベッドから体を起こした。
結果手持ち無沙汰になった。仕方なく、俺はスマホでもいじっていようと思ったのだが、ベッドの周りを探しても俺のスマホは見つからなかった。
「あった」
スマホは、椅子の支柱の陰に隠れていた。
どうしてこんなところに。
よく考えるとこの場は、俺が昨日橘さんに抱きしめられていた場所だ。
慟哭をあげた拍子に落としたのだろう。
取り乱して、暴れたりもしたし。
ポリポリと頭を掻いた。
……意図的に橘さんのことを意識しないようにしているのに、この部屋は橘さんとのあれこれが残りすぎている。
スマホは充電が残り五パーセント以下で、充電しろとの通知が出ていた。リュックサックから充電器を取り出して、コンセントにそれを挿した。
充電しながら、俺は調べ物でもして時間を潰そうと思い至った。
この部屋を動き回るのは、色々刺激が強い。
では一体、何を調べるか。
少し考えて俺は気付いた。
この体に乗り移って早十ヶ月あまり。それだけの月日を経て、俺はようやくずっと知りたがっていた俺の身の現状を知ることが出来た。
でも、よく考えれば……俺の生死は、俺がこの身。斎藤伊織の身に乗り移った理由にはなっていないのだ。
果たして俺は、どうして伊織に乗り移ったのか。
勿論、他にも知らなければならないことは山程ある。
俺が死んだことはわかったが、俺は自分の死因についても調べる必要があることだろう。でも、俺と伊織は赤の他人という関係である以上、他人を頼らない今のやり方で死因を探るのはかなり骨が折れる。
他人に事情を聞くにも、高校生の身である以上、信用を得ることも一苦労だし……死因なんてディープな話、他人に根掘り葉掘り聞けるはずもない。
であればやはり、次に調べることは伊織の身に俺が乗り移った理由。それにしようと思った。
こちらの方がまだ、取っ掛かりがある分調査もしやすいはずだ。
取っ掛かり。
つまり、俺は今俺が伊織の身に乗り移った理由に宛があった。
直接的な理由ではないかもしれない。
でも、恐らくそれを知ることはようやく先に進め始めた現状の解明にきっと一役買うだろう。
伊織が昏睡状態にあった理由。
一体、伊織の身に何があったんだろうか。
それを突き止める鍵も……俺は宛がある。
俺は、スマホの家計簿アプリを開いた。
ついこの前、これを見て気になる香織の買い物を見つけた。
去年の四月の支出を調べて見ると、
『菊の花(白) 二基』
香織が打ち込んだであろう簡潔な文章が、真っ先に目に飛び込んだのだ。
あの花を買った理由を、俺はまだわかっていない。
もしかしたらあの花は、伊織が昏睡状態に陥った理由とは無縁の話なのかもしれない。
いいや、そんなことはきっとない。
きっとこれは、何かを示している。
俺が解明したい謎を解き明かすために必要な何かを、示している。
「菊の花(白) 二基」
「うわあっ」
唐突に背後から声が発せられて、俺は飛び上がった。
そこにいたのは、橘さん。
どうやらいつの間にかシャワーを浴び終えて、部屋に戻っていたらしい。
「何? それ」
橘さんはタオルで髪を拭いながら尋ねてきた。
俺は口ごもった。
事情の説明を渋ったわけではない。シャワー上がりの橘さんが妙に扇情的で取り乱したのだ。
いかんいかん。
これでは事案だ。
さすがにまずい。
三十五歳が十五歳に欲情するのは、まずい。
必死に、俺は自制した。
「ん」
そんな中橘さんは、俺にドライヤーを差し出した。
「何?」
「髪、乾かしてくれない?」
「なんで?」
理由は考えていなかったのか、橘さんは目を丸くした。
理由を考えていないのに髪を他人に乾かしてほしいってどんな状況だ? もしかしたら家では日常的に、橘さんは家族に髪を乾かしてもらっていたのかもしれない。
だとしたら納得だ。
ただ、世話焼きな彼女だったら、優香ちゃんの髪の毛を乾かしてあげている姿の方が容易に想像出来る。
「わっ」
俺の疑問は解消されることはなかった。
橘さんは論ずるだけ無駄とでも言いたげに俺にドライヤーを無理やり持たせて、自分は向かいの椅子に座って俺に背を向けた。
早く乾かせ。
橘さんの背中が力強くそう語っていた。なんと男らしいことか。いや女なんだけどね、橘さんは。
……まあ、他人の髪にドライヤーをかけてあげるくらい、やぶさかではない。
スマホの充電器の上のコンセントにドライヤーのコンセントを挿して、スイッチを入れた。
ブオー、という音を吹き出し熱風を送るドライヤーを橘さんの綺麗な髪に向けながら、俺は指を櫛代わりにして彼女の髪を梳かした。
橘さんの背中は、とてもウキウキしているように見えた。