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変な意味

 ひとしきり泣いた俺達は、その後泥のように眠った。

 朝起きてパッと目を開けた時、目の前に橘さんの安らかな寝顔を見つけた俺は、心臓を鷲掴みにされたような衝撃を覚えた。

 外では小鳥のさえずり。

 所謂、朝チュン。


 どっかの誰かが昨晩、俺を誘ってきたことを思い出して事案案件をかちこんだかと思ったが、両者衣類はキチンと纏っていて、俺は安堵のため息を漏らしていた。


 何もなかったことに安心するような、少しだけ残念なような。

 はい衝撃発言。お巡りさん、俺です。


 俺は橘さんを起こさないようにベッドを降りてシャワーを浴びに向かった。寝覚めに衝撃展開を迎えたために、居た堪れない気持ちに俺はなっていた。

 ため息を吐きながら衣類を脱いで、俺は頭からシャワーを浴びた。程よい暖かさの温水を浴びながら、頭を冷やした。


 橘さんが昨日、俺にしてくれたこと。


 俺は昨日、自分の身が死んだことにショックを覚えた。積み上げたトランプタワーを他人に崩された時のような絶望感に駆られたんだ。

 俺は汗水垂らして必死に築き上げたものが……三十五年築き上げてきたものが、瓦解した事実なんて、早々受け入れられるはずがなかった。


 それだけじゃない。


 俺が俺として死んだ以上、これから俺がすることはもう俺の成果ではない。


 だったら俺はこれから、何をモチベーションに行動をすればいいんだ。

 何を糧に生きていけばいいんだ。


 絶望感に駆られるには、十分な理由だった。


 でも、そんな俺に生きる道標を示してくれたのは、橘さんだった。


 橘さんがいる限り、俺は俺。


 嬉しかった。ただ嬉しかった。


 俺の目の前に広がる世界は、もう俺の知る世界ではない。

 伊織として生きるということは、自分との決別を意味する。俺はいつかそれを理解し、向き合い、その覚悟を固めた。

 成り行きに身を任せるしかなかった。

 この身に乗り移った時点で俺には、もうそれ以外の選択肢が残されていなかったのだ。


 そんな俺に、俺として生きる道を与えてくれたのもまた、橘さんだった。


 一体これから俺は、どれほどのお礼を彼女にすればいいのだろう。


「……アハハ」


 俺は苦笑した。

 きっと橘さんにそんなことを言えば、彼女は面倒くさそうに唇を尖らせて、別にいらない、とか言いそうだから。


 脳裏に浮かぶ彼女の顔に、俺は苦笑した。

 おかしかったからではない。

 橘さんがどんな態度を示すか、容易に想像出来るくらい、彼女と一緒にいた事実に今更気付かされたから俺は苦笑したのだ。


 一体これから俺は、どれほどのお礼を彼女にすればいいのだろう。

 これまでのお礼も。

 そして、これからのお礼も。


 伊織として生きる時間の内に、お礼をし尽くすことは出来るのだろうか。


「……きっと、出来ないだろうな」


 洗面台の鏡に映る俺の顔は、優しい笑みを浮かべていた。


 部屋に戻ると、寝癖を蓄えた橘さんがベッドから体を起こすところだった。眠い目をこすりながら、目を細めて、橘さんは俺を睨んだ。

 しばらく睨んだ結果、ぱっちりと大きな目を丸くして、再び俺を睨んだ。


「ななななんであんたがっ!?」


 酷く錯乱しているようだ。

 昨日の俺より酷いかもと思ったら、乾いた笑みがこぼれた。


「昨日、一緒に泊まろうって提案したのは君だろ?」


「え? ……えぇ?」


 一夜にして記憶障害でも患ったのだろうか。橘さんは慌てふためていた。

 ただしばらくして落ち着きを取り戻すと、どうやら昨晩のことを思い出したようだ。


「ああああんたっ、なんでそんなスッキリした顔してるの!? あの後、何もしてないわよねっ!?」


 そして、余計慌てふためいた。


「してないよ」


「なんでしてないのよっ!」


「いやそこは怒るところじゃない」


 ただ事実を告げただけなのだが、橘さんはワナワナと震えて立ち上がっていた。


「あ、あたしもシャワー浴びてくる」


 そして、俺の真横をすり抜けて浴室に向かった。

 バタンッ、と大きな音をたてて、橘さんは浴室に籠もった。


「橘さん」


 コンコンと扉をノックし、俺は声をかけた。


「何よっ」


「……昨日は、本当にありがとう」


 浴室内が異様に静かになった。


「君のおかげで俺は……生きていける」


 最近はずっと、追い込まれていた気がする。

 香織の恋人騒動から始まり、果ては自分の死と向き合うまで。


 覚悟はしていたつもりだ。

 全部。全部。


 でも俺は、きっと一人ではそれら全てに向き合い、目を逸らさずにいることはきっと出来なかった。


「いつだって君は、俺を支えてくれている」


 でも俺は、何とか今日まで向き合って生きることが出来ている。

 伊織として生きることも。

 俺の体が死んだことも。


 そして、香織との関係も。


 俺が目を背けたい時、向き合えないと臆病風に吹かれそうな時、隣にいてくれる人がいるから……立ち向かっていけるんだ。


「……だからこれからも、俺の隣にいてほしい」


 それが、嘘偽り一切ない俺の率直な気持ちだった。


「変な意味に捉えるよ?」


「変なって……どんな意味?」


「勘の悪い大人、あたし嫌い」


 どうやら橘さんの機嫌を損ねてしまったらしい。

 扉一枚挟んでいるせいで、橘さんがどんな気持ちでそう言っているかは推し量ることは出来なかった。


「なら時間をかけて、あたしの言葉の真意を探してよ。……あたしの、隣で」


 まもなく扉の向こうから、唸り声が聞こえた。


「も、もういいでしょ。部屋でテレビでも見ててよ」


「うん。ありがとう。本当に」


 俺はベッドの方に戻った。

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