君がいる
お墓を出て、俺達は下車したバス停まで歩いた。
街灯のない道でスマホの明かりを頼りに時刻表を調べた。調べた結果、俺達が乗ってきたバスが今日最後のバスだったことが発覚し、俺達は顔を見合わせた。
幸い、お墓の位置から市街地までは三十分くらいで済むのだが、そこから先の駅までは……歩いていたら一時間半は優に超えるのだ。
「お墓でもあたし言ったじゃない。今日はホテルを借りて泊まりましょうって」
橘さんの言葉を覚えていなかったわけではなかった。
ただ今は、一刻も早く家に帰りたい気分だった。
「駅前まで行けば、ビジネスホテルくらいあるでしょ。行きましょう」
寒そうにかじかむ手をこすりながら、橘さんは気丈に言った。
俺達は駅へ向けて、歩を進めた。
山を降り市街地へ出ると、見慣れた国道が俺の目に飛び込んだ。すっかり暗くなった道路には、車以外人気はなかった。都会と違い田舎は、夜になると人だって滅多に歩いていない。
しかも、これだけ寒いとなるとそれもより一層顕著になる。
十字路の赤信号で、俺達は足を止めた。
正面の道路を走り抜ける車のテールランプを、俺はぼんやりと眺めていた。
「あんたの実家は、どの辺にあったの?」
橘さんの問いに、俺は返事をしなかった。
「勘違いしないでよね。ちょっと興味があっただけ。……あんたがどんなところで生まれ育ったか」
俺は、橘さんの話を無視した。答えたくなかった。
後ろを歩く俺から返事がないことに、橘さんはもう質問をする気は失せたようだった。
無言のまま俺達は、市街地を歩いた。
行き、バスから見ていた景色を今度は徒歩で見ることになった。
童心を過ごした道。
昔から変わらない畑。
そうして、高校。
かつての学び舎を前にして、俺は気付けば足を止めていた。
「……どうかしたの?」
「なんでもない」
俺は、再び歩き出した。
旧知を懐かしむ理由も、もう俺にはなかった。
一時間半歩き切った俺達は、無事新幹線のある駅まで戻ってくることが出来た。道中、至るところに街灯が一つもない危険な道があったのだが、ここまで来ればその心配ももう無用だった。
田舎道を歩いてきたからか、数個のビルが立ち並び、人の出入りも多い駅前は随分と繁栄しているように見えた。
ただ、都会のビル群を知ってしまった今、ここが都会とはもう思えなかった。
昔は、この駅前の景色を見ただけで感動を覚えたものだ。
実家の周りにあるのは、畑と大学のテニスコート。後は昔ながらの家々。活発な子供だったから、かけっこをするには不自由ない生活だったが、中学生にもなるとそんな生活にも飽き飽きとしてきたのだ。
そうして俺は、友達と自転車に跨って、この駅前にやってきた。
その時の感動は……言葉では言い表せなかった。
でも、そんな感動も今では苦い思い出だ。
橘さんがスマホで検索したホテルに、俺達は足を踏み入れた。
橘さんは素泊まり出来るかどうか、受付で従業員に尋ねていた。歩き疲れていただろうが、橘さんは丁寧に従業員と話し合っていた。
「ダブルベッドなら空いてるって」
「……そっか」
「色々話を聞いたんだけど、今日って成人式じゃない? 帰省している人もここに泊まっているみたいで、それでそんな状況なんだって」
「だったら別のホテルに行ってみる?」
「別のホテルも似たような状況みたいだよ? ……ここも、もう少ししたら他の客が来るかもだって」
チラリ、と橘さんは受付の方を見ていた。寝床にありつけるか不安で、少し焦っているように見えた。
「わかった。じゃあここにしよう」
「いいの?」
「うん。……俺は、ソファでも椅子でも、適当に寝るよ」
「駄目」
駄目、と言われても。
言い返そうと思ったが、橘さんは小走りに受付に向かい、そのまま部屋を借りてしまった。
「このまま問答してる時間が勿体ないと思った」
「……同感だ。揉めるなら、部屋で揉めよう」
エレベーターに乗って部屋にたどり着いた。
受付の人は部屋が余っていないと言っていたそうだが、それは事実らしい。俺達が通された部屋は、喫煙室だった。前客が吸ったものか、はたまた部屋に染み付いてしまったものか。部屋の中はタバコの匂いがきつかった。
「臭い……」
「換気扇回しておくよ」
ただ、明日帰る頃には服にタバコの匂いがついているかもしれない。
「……家に帰ったら、親に心配されるかも。変な友達と会ってたのかーって」
橘さんは背負っていたリュックサックを机に置いて、ベッドに腰を落としながら言った。
俺は、橘さんに返事もせず扉の前で立ち竦んでいた。
「大丈夫?」
「……うん」
俺は歩き出して、机の横に設置された椅子に腰を落とした。ふう、と大きなため息を吐いた。
「……ちょっと親に電話する。あんたも、あたしの後に香織さんに電話しな」
「うん」
橘さんは自宅に電話を始めた。電話に出たのは、優香ちゃんだったようだ。母親は家に帰っているが、夕飯を作ってすぐにお風呂に入りに行ってしまったらしい。
しばらく、橘さんは優香ちゃんと話を続けていた。微笑む橘さんを横目に、俺は窓の外の景色を眺めようと思った。ただ、室内が明るいからか、窓から外の景色は真っ暗で何も見えなかった。
「あ、お母さん? ごめん。今日友達の家で泊まることになっちゃった。うん。うん。……わかってる。ちゃんとお礼はして帰る。明日のお昼前には帰るから。……うん、大丈夫。優香の面倒は見ておくよ。うん。じゃあね。バイバイ」
橘さんは電話を切った。
「ごめん。長引いた。香織さんに電話しなよ」
「さっきメッセージを送っておいたから大丈夫」
外の景色も見えず、橘さんの電話が長くなりそうなのを見て、俺はスマホを操作し香織にメッセージを送っておいた。
今日、帰れない。
そう香織に送ったら、香織はガッツポーズのスタンプを押してきた。
「……まあ、あんたも複雑な事情があるから強くは言わないけど、養ってもらってるんだからちゃんと誠意は見せなよ?」
「……そうだね」
「……ふふっ」
突然、橘さんは思い出し笑いのように吹き出した。
どうしたのかと顔を見ると、いつになく優しい笑みを橘さんは浮かべていた。
「ごめん。さっき、家に帰ったら変な友達と会ってたのかって親に怒られるかもって言ったでしょ。思えばあんたは……十分、変な人だった」
確かに、外身は十五歳の少年だが、俺の中身は三十五歳のおっさん。
中身が入れ替わっているだけで変な人なのに、彼女よりも二十歳も年上と来たら……途端に犯罪臭が増す。
「十五歳と三十五歳。そんなのパパ活くらいしか聞かない」
「……うん」
「……シてみる?」
ずっとぼんやりとしていた頭が、途端覚醒した。
橘さんを見ると、扇情的な顔をして微笑んでいた。
「大人をからかうもんじゃない」
「からかってない。あたし、自分を安売りしたりしない」
「だったら……」
文句を言いかけて、ムキになるのも馬鹿らしいと思い直った。
橘さんだって、本気でこんなことを言っているはずないのだ。こんなの、冗談に決まっている。
「冗談じゃないよ」
しかし……。
俺は、再び橘さんの顔を見た。彼女は、真剣な眼差しで俺を見据えていた。
橘さんは、ふう、と息を吐いて立ち上がった。覚悟が決まったような顔をしているように見えた。
「……あたし、さっき言ったでしょ。あたし嬉しかった。あんたに頼られるのが、嬉しかった」
一歩。また一歩。
橘さんは、俺に近寄った。
「頼ってほしい。あんたの重荷を、あたしにも一緒に背負わせてほしい。それは嘘偽りないあたしの本心。だから、どんなことをしてでもあんたを励ましたい」
そして橘さんは、椅子に座っている俺の眼前に立った。
「……励ます?」
「そうよ。今、あんたは落ち込んでいる。だから、励ますの」
理路整然と、橘さんは事実を並べた。
俺が認めたくない事実を並べた。
そして、俺を抱きしめた。
「……佐伯将太」
橘さんは、呟いた。
俺は、息を呑んでいた。
「墓誌の……一番最後に書かれていた名前」
考えれば、すぐにわかることだった。
あの墓誌には、俗名と共に個人の享年も書かれている。俺は散々、自分の年齢は三十五歳だったと伝えてきた。
隣で見ていた橘さんだって、気付かないはずないんだ。
「……それが、あなたの名前なんじゃないの?」
……俺は、嘘をついた。
あの時、橘さんに嘘をついた。
墓誌に、俺の名前はない。
あれは、あの場で俺が咄嗟についた嘘だった。
俺は、本当は死んでいた……!
あの場でその事実を、橘さんに伝えるのが怖かった。だから嘘をついた。
俺が死んでいたと知れば橘さんはショックを覚える。
だから、真実を告げるのが酷だと思ったから嘘をついた。
「どうして、嘘をついたの?」
……違う。
そんなんじゃない。
橘さんのために、あの時俺は嘘をついたんじゃない。
あの時、墓誌に掘られた俺の名前を見て。享年を見て。
俺は……事実を事実と受け止めるのが怖くなった。
「……自分が死んだ事実を、受け入れられなかった……っ」
覚悟はしていた。
俺の身に何かしらの不幸が起きていることとは、初めからわかっていた。
わかっていたのに……。
いざ、目の前で残酷な現実を突きつけられて、俺は正気を保つことが出来なかった。
……だって。
「自分の人生が、上手くいっていたと言われれば、それは違うと思う……」
声が震えた。
「でも俺は、頑張ってきたんだ。出来ないことは出来るように努力して。時には他人に疎まれても頑張って……!
そうして、ほんの少しずつ成果を得られ始めていたんだっ!!!
なのに……。なのにっ!
俺が築いたものはなくなってしまったっ!
こんな……こんなっ……なんで突然、こんな唐突に全てを……全てを、奪われないといけないんだよぉぉ……。
なんでだよっ。なんでなんだよぉぉ……!」
気付けば、涙が溢れていた。
気付けば、橘さんを抱きしめ返していた。
一体、どうして俺がこんな目に遭わないといけないのか。
一体、どうして俺が……死ななければならなかったのか。
理由もわからない。意味もわからない。
知る由もないまま、挽回することも出来ないまま、俺は全てを失った。
嫌いだった自分を変えるためにしたこと。
仕事の成果。
そして、俺の体。
俺は全てを失ってしまったのだ。
そして、もう俺は俺の成果を残すことは出来ない。だってもう、俺の身はないのだから。
これほど運命を残酷だと思ったことはなかった。
怒りで、手が震えていた。
悲しみで、慟哭は止まなかった。
「……確かに、前のあなたの体で成したことは奪われたのかもしれない」
橘さんの声色は、いつになく優しかった。
「でも、あんたはまだここにいるじゃない。斎藤伊織として、生きているじゃない……!」
「それは俺が成したことじゃない。これから俺がすることは全て、斎藤伊織がしたことじゃないかっ」
橘さんは何も悪くない。
なのに動転するあまり、俺は声を荒らげた。
「違う」
「何が違うって言うんだ!!!」
「あたしがいる」
それは、いつか俺を励ますために橘さんがくれた言葉だった。
「……隣には、あたしがいる」
……何か。
何か、言わないといけない。
否定でも、肯定でもない言葉を、何か言わないといけない。
でも、口が震えて声が出なかった。
「あなたは死んでしまった。もう他の人は、あなたを知らない。あなたの見る景色もまた……あなたの世界ではなく、斎藤伊織の世界。だからあなたは、嘘を言ったんだ。悲しんだんだ」
何かを言わないといけない。
何かを……。
「でも違う。違うよ……。だってあたしがいる。あなたの前には、あなたのことを知っているあたしがいる。……あたしがいる限り、あなたはあなただよ」
「……君がいなくなれば、俺はまた俺でなくなる」
違う。こんなことを言いたいわけではない。
「あたしは、あなたの前からいなくならない」
「……情けない俺を見て、同じことを言えなくなるさ」
「大人の流す涙は、尊いものだよ」
強く、橘さんは俺を抱きしめてくれた。
「……誰もがやりたがらない校外活動を率先して解決させた」
俺は、気付いた。
「あたしの代わりに、不真面目な職員を怒鳴ってくれた」
今、橘さんは俺を慰めてくれているわけではない。
「苦手だった勉強も努力して良い成績を収めた」
……今。
「自分の身がどうなったか知りたいと、必死にあがいた……っ」
今、橘さんは……。
「あなたの涙が見れて、あたしは嬉しかった。あなたの秘密が知れて、あたしは嬉しかった」
橘さんは……っ!
「あたしは……あなたに頼ってもらいたい。どんな重荷だって、一緒に背負わせてもらいたい」
……何か。
俺は何か、橘さんに言わなければならないことがあるはずだった。
否定でも。
肯定でも。
どちらでもない……一言。
「ありがとう」
……嬉しかった。
情けない俺を肯定してくれた橘さんの言葉が。
後悔ばかりの俺に向き合う勇気をくれた橘さんの言葉が。
死んでしまった俺に存在価値をくれた橘さんの言葉が……!
「ありがとう。……ありがとう。橘さん」
ただ、嬉しかった。
残酷な現実を突きつけられて。
後悔をして。悲しんで。情けない姿を、見られて。
俺は、思い出した。
「……向き合う勇気」
「え?」
「君が教えてくれた大切なことだ」
未だ、事実を受け入れたくない心がある。弱い弱い俺の心が、俺の死を否定したがっている。
でもきっと、それを受け入れないと俺は……先に進めない。
「……向き合えるの?」
「向き合えるさ」
「根拠はあるの?」
俺は、苦笑した。
「君がいる」
そう応えてほしかったのか、抱きしめる橘さんの手に力が篭った。
「……俺の隣には、君がいる」
もう、俺の身は傍にはない。
俺の身は……死んでしまった。
それでも、俺の傍には俺を認識してくれる人がいる。
抱きしめてくれて、励ましてくれる人がいる。
……だから、大丈夫。
隣に橘さんがいれば、俺はきっと立ち直っていける。
「このご時世にクサいこと言うね」
橘さんは涙を流しながら、そう言って苦笑した。
四章終わりです。
前話、状況を混沌とさせる意図で主人公に墓誌に名前がないと嘘をつかせたが、一話で解決させるならその意味があったのかと疑問を抱いてしまった。
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