名前
かつての住まいを目の前にして多いに取り乱した俺は、気持ちが落ち着いた頃に実家方面に向かうバスに乗り込んでいた。これから俺達は、我が一家のお墓に足を運ぶつもりだった。
ガタンガタンと揺れるバスの中、俺は静かに外の景色を眺めていた。
隣には橘さんがいた。
でも、お互いに何かを喋るような気分になれず、ずっと黙ったままだった。
夕焼けに染まり始めた外の景色は、いつの間にか随分と馴染みある景色になりつつあった。
車道の傍にある竹林も。
竹林を抜けた先にある商業施設も。その商業施設にたくさん止まる車も。
かつて、香織と出会った高校も。
見覚えのある景色が、目の前に広がっていた。
バスが次のバス停に停車した。乗り込んでくる乗客の中には、かつて俺も着ていた制服を羽織った子も多数いた。
部活動だろうか。
それとも、学校活動の一環だろうか。
あの学び舎で、俺もかつては色々な青春を送った。
男友達と廊下を目一杯駆け回った。
授業中にやる気を失くして居眠りした日もあった。
卒業式。
入学式。
『大丈夫?』
そうして俺は、香織と出会った。
香織との付き合いは僅か一年足らず。でも、たくさんの場所に一緒に出掛けた。たくさんの思い出を共有した。
だけど、今この街で俺がいた残滓は……まだ、一つも見つかっていない。
いつか橘さんが言っていた。
今の俺は、斎藤伊織が患った記憶障害の一種なのではないかと。
……俺も、信じがたい現状に、それが真実だったのではないかと思い始めていた。
まだそうだと決まったわけでない。
まだ……俺が勤めた職場が更地になっていて、俺がかつて住んだ住まいに別の人が入居していた。ただ、それだけ。
それだけなのに……不安は拭えなかった。
あの楽しい記憶は、偽りだったのだろうか……?
あの青春は全て、幻だったのだろうか……?
そんなことばかり、俺は考えてしまうのだ。
いやむしろ……。
このまま、自分が不幸になった現状を目の当たりにするくらいならば。
それならばいっそ、俺が異常だったという現実の方がマシだ。そう思った。
「降りよう」
外は、もうすぐ夜になる。
そんな頃に俺達は、目的地に到着した。
山の頂上付近に切り開かれたこの地に、我が家のお墓はある。
ここで、明るみになる。
俺が不幸になったかどうか。そんな曖昧な話ではない。
ずっと思っていた。
伊織の身に乗り移ったその日から、ずっと……考えなかった日はなかった。
俺は、どうなってしまったのだろうか。
どうして俺は、この身に乗り移っているのだろうか。
……俺は、生きているのだろうか?
その答えが、ようやく……俺の目の前に転がり込んだ。
砂利を踏み、寺を超えて、脇にある階段の方へ俺は歩いた。
年寄にはキツイ急勾配の階段を昇って、いくつかの墓石を通り過ぎた。
「綺麗」
背後からそんな声が聞こえた。
山中にあるこのお墓からは、街の景色が一望出来る。丁度、家屋に明かりが灯ってきたこの時間帯の街中の夜景は、ノスタルジックな雰囲気を感じさせた。
「……こっちだ」
我が家のお墓は、もう少し昇った先にある。
墓参りの度、俺は作業そっちのけで景色を眺めていた。それくらい、俺もこの景色が好きだった。
でも今は、夜景に気持ちを許せるほど、余裕はなかった。
「ここだ」
そうして俺は、たどり着いた。
我が家のお墓に。
お墓の周りは、綺麗に整頓されていた。脇にある雑木が無闇勝手に伸び散らかされていることも少なくなかったが、今日はちゃんと刈り取られていた。
ただ……供花台には、枯れた花が数輪と、燃え尽きた線香が数本。
ゆっくりと、俺は我が家のお墓を眺めた。
ようやく見つけた俺がいた証のようなものに、俺の存在を確認した気がしたんだ。
そして……。
「どうなの?」
静かに、しびれを切らした橘さんに尋ねられた。
俺は、橘さんにまだ返事をしなかった。
決意出来なかった。
そこにあるのはわかっている。
でも、それを見たら……何かが終わってしまう気がした。
知りたくない。
でも、知らないといけない。
そうだ。俺は知るためにここまで来た。
ずっと疑問だった。
不安だった。
伊織の身に乗り移って、俺の体は今、どうなっているのかと。
疑問で不安で……何度も何度も後悔した。
そして、橘さんを巻き込んでまで俺は……俺は、ここまで来た。
ようやくここまで来れたんだ。
怖い。
恐ろしい。
不安。
そんなもので立ち止まるわけには、もういかないんだ。
意を決して、俺は目を向けた。
墓誌。
我が家の墓誌には、個人の俗名と年齢が掘られている。
つまり、もし俺が死んでいたら……あるはずなんだ。
俺の名前が、あるはずなんだ。
……墓誌には。
「……ねえ、どうなの?」
不安そうな橘さんの声が聞こえてきた。
「辛いのはわかるけど……でも、教えて。教えてほしい」
少しずつ橘さんの声は、悲痛なものになっていった。
「あなた言ったじゃない。自傷行為に走るかもしれないから、あたしに一緒に来てほしいって。あたし嬉しかった。あんたに頼られるのが、嬉しかったの」
そんな橘さんを不安がらせたことに、罪悪感はなかった。
「だから……教えて。頼ってほしいの。どんな重荷だって、一緒に背負うから。……だから、だからっ」
もう、そんな感情を抱けるほど、俺は冷静ではなかった。
「……なかったよ」
呆然と、俺は言った。
「なかった。俺の名前は……ここにはなかった」
もう、墓誌を見る必要はなかった。
見たって結果は、何も変わらないのだから。
「行こう。もう……いいんだ」
「……そう」
橘さんは、歩き出した俺の後ろに着いてきた。
「日帰りする気だったみたいだけど。どっかに泊まりましょう? これからバス移動とかしたら、多分帰れない」
「……うん」
俺達は、お墓を後にした。