かつての住まい
目の前の更地を見た俺は、まもなくありえないという所感を抱き始めていた。
あの会社が潰れることはありえない。根拠なく思ったことではない。
俺があの職場に就職をしたのは、地元の大学を卒業した二十二歳の時だった。あの職場は、町工場に近い中小企業のため規模は大きくなかったが、切削部品の手配を数十年、数社の自動車メーカーからお願いされる程度には経営は順調だった。昨今、海外メーカーに手配を取られたなんて話も少なくない中、恐らく国内メーカーでも潤沢な状況だったと思う。
そんな順調な経営状況の会社がいきなり潰れているだなんて、そんなことあるはずはない。そう思ったのだ。
工場を移転したのだろうか。
いや、それもきっとない。
職場の社長は、一代であの会社を成し、そして自動車メーカーとの伝手を構築した。この土地はあの社長の曽祖父から受け継いだ土地で、そこに会社を建てたと言っていた。
そんな場所を売って、工場を移転するほどの余裕はなかったはずだし、あの人情に溢れた社長がそんな場所を売り払うはずもない。
社長。
そうだ。社長だ。
社長は今、一体どこで何を……。
思い出していたのは、かつての記憶。
職場で俺が働いていた時の記憶だった。
自動車メーカーと長らく付き合いのあった俺の職場の繁忙期は、メーカーが新車を発表する直前などに集中する。ただどの現場もそうだろうが、現場は常に慢性的な人手不足に陥っていて、俺も部品の営業から測定まで、言ってしまえば最初から最後までを一人で見させられることは少なくなかった。
あの日は、今は更地となったこの工場の最深部にある測定部屋に俺は一人篭っていた。
新型バスの車軸に使われる切削部品を、俺は部下達を帰らせて一人測定していた。一個数キロする切削部品を持ち上げては、汗を流しながらノギスや工場顕微鏡を使って測定をしていた。
自動車メーカーの部品は命を扱う部品となる。だから、部品の測定するポイントも多く、測定するサンプルの数も多くなる。俺も詳しくはないが、cpkという工程能力の指標からその数は決められているそうだ。その時は、百個以上の部品を測定する羽目になり、俺は朝から晩まで測定室に篭っていた。
『お疲れ』
そんな俺の様子を社長が見に来たのは、深夜一時を過ぎた頃。
彼もまた、この会社を経営するため、部下達を守るため、長時間労働に身を投じていた。
『お疲れさまです』
『どうだ。部長の仕事は。もう慣れたか?』
『全然。考えることが多すぎて、今日は頭からここに篭って測定してました』
経営状態は潤沢とはいえ、労働管理の観点から、俺の職場でも残業禁止令が出されていた。だから、定時以降職場に残っているのは管理職ばかり。管理職は会社の人間になるから、残業代が支払われない。だから、慣例的にそうなることが多いのだ。
『まあなあ。人を動かすってことは、人に嫌われることと同義だからな。政治家だってそうだろう? 彼らの成す政策は全員から支持されることはない。少数派を切り捨てるわけだから、必ず彼らは恨みを買う』
まあ、今連中が叩かれているのはそれ以前の問題だけどな、と社長は笑い飛ばした。
『まあ、さっさと部長になった俺を皆があまり良く思っていないことは知っています。年齢順で行けば、三段飛ばしくらいしましたからね、俺」
『入社した当時から、お前の仕事振りを俺は買っている。今の測定の仕事だって、客先に駆り出されていることだって、本来はお前のやることではないんだ。今、管理職に上がれない連中は身勝手だ。文句ばかりはいっちょ前で机上論ばかりを並べて自分では何もすることはない。きっと連中は何かあったら、実働業務をしたのは奴らだから、と尻尾切りをしていくだけだろうよ。そんな中でお前の仕事態度は、誠実そのものだと俺は思っている』
『褒めても仕事しかしませんよ?』
『たまには早く帰れ。……嫁さんは、まだ作る気はないのか?』
『まだない、ですね』
『そうか。……もうそろそろ体にもガタが来る頃だ。早く見つけた方がいいぞ。何なら見合いの一つ、見繕ってやろうか?』
俺はそれに返事をすることは出来なかった。
この職場で毎日長時間労働をしている内に、恋人探しもロクに出来ていないということは事実。だけど、俺が恋人を探さないのはそれだけが事情ではなかった。
『余計なお世話だったか』
社長はため息を一つ吐いた。
『お前が恋人探しに消極的なのは知っていた。ただ、先に進むことも重要だぞ。後から気付いても、取り戻せないことだってある』
『はい』
『……まあ、頑張れよ』
仕事ではなく、恋人探しを頑張れ。
この会社の社長が管理職に言う言葉としては、ありえない言葉。
多分今社長は、社長としての立場からではなく、一個人の立場から俺の将来を危惧してそれを言ってくれた。
俺達以外の誰もいない場所だから、社長も俺にそう言えたのだろう。
この時間にはもう、この会社には俺と社長しか残っていなかった。
だから多分、社長が他の管理職に向けても同じような発言をすることはなかったと思う。
俺と社長は、所謂戦友のような間柄になっていた。
向こうはもう六十過ぎ。こっちは三十代。だけど、仕事で結ばれた友情のようなものがあった。
社長は今、元気だろうか?
どうして、工場を潰したのだろうか……?
自分の身の調査も忘れて、俺はあたふたし始めていた。
「次は、どこに行くの?」
現実に戻してくれたのは、橘さんだった。
狼狽えていた俺は、ゆっくりと橘さんの方を見た。
橘さんは、まっすぐな瞳で俺を捉えていた。
その瞳は語っていた。今俺がすべきことは。今日の目的は、何だったのか、と。
「……次は、アパートに行こう」
そうだ。そうだった。
今日の俺の目的は……俺の体がどうなったかを知ること。
お小遣いは、今日の遠征でほぼ使い果たした。また当分、ここに来れなくなる。ここで真実を知らないと俺は……また長期間、真実を知れずに不安に駆られることになる。
会社から、当時俺が住んでいたアパートまではそう遠くない場所にあった。
何を言う元気もなくなった俺は、黙って移動を開始した。一歩後ろから橘さんが歩いてきていることは、足音でわかった。
こんな気持ちで、かつての通勤路を歩くことになるとは思わなかった。
横断歩道を渡り、踏切を渡った。
踏切の端に置かれた甘酒の瓶と白い一輪の花を見つけた時、気が動転しかけた。
足取りは重くなる一方だった。
「大丈夫?」
橘さんにも、心配される始末だった。
「うん」
そして、俺達はかつて俺が住んだアパートに到着した。
「一階の角部屋に、住んでいたんだ」
冬場の空が陰り始める時間帯。
アパートにも、ポツポツと部屋の明かりが灯されていた。
俺が住んでいた部屋にも、明かりが灯っていた。
心臓が高なった。
誰かいる。
あの部屋に、誰かいる……!
気付いたら、橘さんを放って駆け出していた。
アパートの玄関の方へ向かい、角部屋。
表札はなかった。
俺は、チャイムを鳴らした。
バタバタと足音が室内から聞こえた。
その足音と同期するように、心臓が強く強く、鼓動を鳴らした。
ガチャリ。
中から出てきたのは……。
「どちら様ですか?」
見たこともない、女性だった。
俺は視線を泳がせた。
その時ふと、女性の背後に見えた室内の様子を眺めていた。
室内は、俺が住んでいた時の物は一切なかった。
まるで、俺がこの部屋に住んでいたことなんてないと言われているようだった。
この世界から隔絶されたような疎外感に、俺は襲われていた。
「すいません。部屋を間違えました」
抑揚なく俺は言って、戸惑う女性を放ってアパートの前を立ち去った。
会社もなくなり。
アパートも、俺の住んでいた痕跡はなく……。
「どうだった?」
橘さんに尋ねられた。
「……いなかった」
「そう」
橘さんは言っていた。
今の俺は何かしらの病気が併発した状態なのではないかと。伊織とは別の人格が生まれただけなのではないかと。
……ここに来て俺も。
少し、そうなんじゃないかって思い始めていた。
いや違う。
そうであってほしい、と思っていた。
その方が……。
その方が、まだマシだと思っていた。