かつての職場
二時間の電車旅が終わった頃、通常の駅よりも大きく綺麗な新幹線のホームで、俺は体を伸ばしていた。
「少しは休まった?」
そう尋ねてきたのは、橘さん。
「うん。気付いたらぐっすりだった」
苦笑して頭を掻きながら、俺は橘さんに言った。
昨晩から今日のことが気がかりすぎて中々眠れなかったが、こうして今日に響かせるあたり、俺も情けない。
「それにしても、寒い」
橘さんは両腕をさすりながら縮こまっていた。
この辺の冬の気温は都心に比べて低い。マイナスになっているのが当然といったそんなレベルだ。
「ホッカイロ余ってるから、使いなよ」
「ありがと」
橘さんにホッカイロを渡すと、橘さんは俺に背を向けてガサゴソとコートの下のセーターにホッカイロを貼っていた。
「この辺の冬、ちょっと舐めてた」
「こっちに来るのは初めて?」
「そうね。……後は、あたしちょっと冷え性なの」
「それは……大変だね」
橘さんは女子陣からは羨ましがられるプロポーションを持った女性だが、端から見れば少し痩せすぎにも見えた。それも冷え性の要因になっているのかもしれない。
「じゃあ、行こうか」
「うん」
へクションッとくしゃみをした橘さんは、俺の後に続いてきた。
新幹線のホームを出ると、駅と直通に作られた商業施設に俺達は入った。出た時間が早朝だったから、まだお店はほとんど開いていなかったが、この辺は暖房も効いていて暖かかった。
「あたし、この辺にずっといたいかも……」
「そう言わずに、色々と地元を見て回ろうよ」
「うぅ……」
珍しく弱気な橘さんは新鮮だった。
「マフラーいる?」
「貸して」
背に腹は代えられないというやつか。提案したら速攻で返事をされた。苦笑しながら、俺は巻いていたマフラーを橘さんに手渡した。
マフラーに口を埋めて、橘さんはぬくぬくとしていた。その姿は年相応でどこか愛らしい。
「じゃあ、バスに乗ろうか。都心じゃ見れない自然の景色を見に行こう」
「バスの中は温かい?」
「うん。大丈夫だよ」
「じゃあ、乗る」
いつの間にか橘さんの行動原理が温かいか否かになりつつあった。
早朝でアーケード街もロクに開いてない駅前に別れを告げて、俺達はバスに乗り込んだ。
余談だが、今日は成人式が開かれる日だったからか、市街地にある県民ホール行きのバスは随分と賑わっていた。いつか、俺もあそこで成人式をした時のことを思い出すと、地元に帰って来たんだなという気持ちがようやく湧いてきた。
バスの中は十分に暖かかったからか、橘さんはいつの間にか静かになっていた。落ち着いた橘さんに安堵して、俺は車窓から外の景色を眺めた。
都心と違い、この辺は車社会だ。電車網も発達しきっておらず、バスも採算を取るためにそこまで多くの本数が走らない。故に、都心の過保護レベルな公共交通手段は、この田舎では体験することは叶わない。
だから、この辺の景色、俺はいつも車を運転しながら見ていた。
そして、あの時よりも少し車高が高い街の景色は、当時とあまり変わっておらず……俺は胸の中が熱くなっていた。
橘さんは俺が伊織という少年に乗り移ったことを、病気の類と評したことがあった。
あれを聞いて以来、そんなはずないとわかっているものの、俺も時々それが正しいのではと考える機会が増えた。
本当は、俺という人間はいないのではないか。
俺は、記憶が錯乱していて別人格を宿してしまっただけなのではないか。
そんな考えが浮かんでは消えていた。
そして、そんなことを考える度に気分が悪くなっていた。
ただ、今こうしてかつて見たものと同じ景色を見れて、俺は自分の存在をこの街に見て、安堵しそして懐かしさで押しつぶされそうになっていたのだ。
「自然の景色って、もしかしてどっかの山中だったりする?」
山道を進み始めたバスに、橘さんは少し不安そうに言った。
「そうだね。……あ、思えば駅よりももう少し寒いかも」
「えぇ? ……うぅ。我慢するよ」
「ごめん」
駅から山中へ向かうバスは、俺達を直通で目的地へと運んでくれた。
たどり着いた先にあったのは、日本でも有数な、とてもとても有名な滝。
観光地化しつつあるその場所に俺達は降り立った。
橘さんは、バス内で温み一旦外していたマフラーを、再度口元を埋めさせるくらいまでの位置で巻いていた。
「帰りのバスは、四十分後だ」
まずは帰りのバスの時間を俺は確認して言った。
「駅からここまでざっと一時間。往復で、丁度お昼くらいね」
「うん。お昼はここで食べる? 駅前で食べる?」
「ここ、観光地っぽくなってるし、少し割高なんじゃない? 駅前のファミレスとかで済ませた方がいいと思う」
「わかった。じゃあそうしよう」
俺達が到着した頃、丁度この辺のお店も営業開始だったようで活気が湧いてきていた。お土産屋。蕎麦屋。山頂へ行けるロープウェー。ワインセラー。
「お土産屋を散策しながら、滝の方へ行こうか」
「うん」
俺達は歩き始めた。
この辺に俺が最後に来たのは、大学時代だったか。都会から越してきた友達を引き連れて、やってきたのだ。
大学時代の思い出は、高校時代よりも華やかで、ただ社会人時代よりも頭が悪く、一番楽しかった時期だが、あまり語れるような思い出はない。それでも、かつて見た情景を呼び覚ましながら歩く行為だけで、楽しかった。
開店したばかりの土産屋に足を踏み入れて、商品を物色したが、俺達は特に何かを買うことはしなかった。
「今買うと荷物になるし」
温かい場所ではいつも通りの橘さんは、割り切りよく言った。
「じゃあ、ソフトクリームとか食べる? 旅先でソフトクリームを食べるって、ありがちじゃない?」
「こんなに寒いのに食べれない」
「確かに」
冷え性な橘さんは笑っていた。
そんな一幕を経て、俺達は滝の方へと歩いていった。滝は、今いる場所から階段を降りていった先から丁度良い角度で拝むことが出来る。
前俺が大学の友達とここにやってきたのは夏場。あの時は階段を濡らすくらいの大量のマイナスイオンを吹き出す滝のゴーっという爆音がすごかったことを覚えている。
「階段、滑るから気をつけて」
「うん。……きゃっ」
寒さのあまり縮こまっていた橘さんは、見事に階段の一段目で足を滑らせた。尻もちをついて、苦痛に顔を歪めていた。
「だ、大丈夫?」
「……いたいぃ」
「立てる?」
手を差し出すと、迷うことなく橘さんは俺の手を握って、俺に起こされた。
「手、引いていくよ」
「え?」
「ゆっくり歩くから」
「……うん」
ゆっくりと、一段一段俺達は階段を降りた。
そして、ようやく目にした滝は……かつて見た滝とは違い、迫力にかけるものだった。
「うわぁ。すごいねぇ」
橘さんは満足げだったが、俺はかつての記憶があるから不満げだった。
一体、どうして?
俺はスマホを使って調べてみることにした。
結果、どうやらこの滝は山頂からの雪解け水が流れたことにより出来る滝であることを俺は知った。だから、雪解け量が多い夏の方が迫力のある滝であったと。
「今度は、夏場に来ようか」
「ほぇ?」
身を縮こませながら滝に感動していた橘さんは、素っ頓狂な声を発した後、首を傾げた。
バスが来るまでの四十分という制限時間はあっという間に過ぎ去った。俺達はバス停から駅に戻るバスに乗り込んだ。
「すごかったね。滝」
「そうだね」
そんな会話をしながら、一時間のバス旅を経て、元来た場所に戻ってきた。
駅構内にあるファミリーレストランは、お昼より少し早い時間に戻ってこれたためか待ち時間なく席まで案内された。
今日は、午後もマイナス温度になることが予想されている。
だから、体の芯から温めそうなものを二人とも食した。
腹が膨れた頃、俺達はファミリーレストランを後にした。
……そして。
「じゃあ、行こうか」
俺達はついに、今日の本題である俺の体の現状の調査に赴く決意を固めた。
「……どこから行くの?」
橘さんに尋ねられた。
最初、どこから行くか。
昨晩までじっくりじっくり、俺はそれをどうするかを考えてきた。熟考に熟考を重ねて、そうして昨日の夜の時点では最終的に、何より俺の身がどうなったかを知るため、過去に住んでいたアパートを訪れることで頭の中では固まっていた。
「まず、職場に行ってみたい」
今になって心変わりしたのは、午前中橘さんと楽しく観光をした結果、不幸な結末を少しでも味わいたくないという逃げの感情が生まれたためだ。
さっきまでは、橘さんのおかげでとても楽しい時間を送れた。
香織に指示されて起こした行動だったが、結果あれだけ楽しめたのなら上出来だろう。
……もしこれが、本当にデートであったのなら。
現状に絆され、物事の本質を見失うのは俺の悪い癖だ。今日の本題は、橘さんとのデートではなく、俺の現状確認なのだ。デートはあくまで、仮初の行い。
なのに結局、デートに引っ張られ日和っている自分が酷く情けない。
「……わかった」
「うん。アパートとかよりは、この駅から近いから。歩いて行こうか」
「……ねえ」
橘さんの顔は、少し不安そうだった。
「真綿で首を締められるような展開には、ならないよね」
職場から覗こうと俺が提案したのは、そこを確認したとして直接俺の身の安否確認には繋がらないから。職場に行ったとて、俺達は会社の中には入れないし、そもそも今日は休日で人もいないだろう。無駄骨になる可能性がゼロではない。……どころか、無駄骨になる可能性は極めて高かった。
橘さんの言いたい意味はつまり、ここまで来て無駄骨を食う可能性のある場所を優先するより、核心をつける場所を優先した方が良いって意味だ。
貴重な時間が勿体ないし、俺の精神面もそうだ。
……ここまで来て行動を起こして結果を得られないのは、やきもきするどころか恐怖を余計駆り立てるだけ。
橘さんはそこまで見越してそう言った。
「……大丈夫だよ。きっと、大丈夫」
橘さんにそこまで言われても俺が頑なな態度を示したのは結局、程度の低いところから攻めていって安心していってから核心に触れたい、という気持ちが強いからだ。
ただ、俺の大丈夫、は根拠の一切ない言葉だった。
今、俺の職場がどうなっているか。伊織となった今ではそれを知る由もなかった。調べようともしなかった。そこから俺の今に繋がる情報は得られないと思ったし、別ルートから探りを入れる方が重要だと思ったからだ。
ただ俺は、ここに来てそんな俺の認識が甘かったことに気付かされた。
駅から歩いて数十分。
俺は、職場に……職場のあった場所にたどり着き、立ち竦んでいた。
「ここ?」
不安げに橘さんに聞かれた。
「ここだ。……間違いない。間違いようがない。……十年以上、ここに通ったんだ」
夢でも見ているような気分だった。
夢であれば、今すぐ覚めてくれと心から願った。
どうしてこうなった。
俺は確かに、地元に戻ってきて臆病風に吹かれた。でもそれはある意味石橋を叩いて渡るというやつで、時間を惜しまないならば、精神的に余裕を持っていられるならば、間違った選択肢ではないはずだった。
まずは安心したかったんだ。
俺のいた日常を追体験し、思い出し、そうして安心して本題を調べたかったんだ。
ここに俺がいたという証を見て、勇気を振り絞りたかったんだ。
「……まだ、あなたの身に不幸があったとは、決まったわけじゃない」
「……うん」
橘さんの根拠のない励ましに、俺は力なく頷いた。
視線を落として、これが夢だったらともう一度願った。強く目を閉じて、夢なら覚めろと念じた。
そうして、俺は目を開けたが……俺の願いは届かなかったらしい。
かつての俺の職場は、更地になっていた。